2025/12/01 01:00
あわわ編集部
邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑪日本最古の賢者の石 阿南の若杉山辰砂採掘遺跡
小学生の社会の授業で習う、あの「邪馬台国」が阿波徳島にあったかもしれない説が盛り上がっている。魏志倭人伝など各歴史書からも符号する事象が多くあり、邪馬台国阿波説に関する書籍やWEB記事、YouTubeなどで各執筆者が自分の説を論じている。ただ、阿波説は完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。1800年も前の出来事を完全一致させることはほぼ不可能ということで・・・。それならば!それぞれの論者の説を一同に掲載することで、各説の微妙な違いや逆に一致している点などを比較できるようにしようと、まとめ記事を企画しました。この無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者はなんと8名も!毎回のテーマごとにエントリーして執筆してもらうスタイルでまとめていきます(エントリーしないテーマのときもあります)。それぞれが論じる内容を読み比べ、納得する説をお好みでチョイスしていってください。なお、当企画は阿波の古代史を通して徳島の魅力を再発見するというのがミッションなので、邪馬台国以外のテーマも登場予定です。
※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
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邪馬台国は阿波だった!?テーマ⑪日本最古の賢者の石 阿南の若杉山辰砂採掘遺跡
通説
若杉山辰砂採掘遺跡(わかすぎやましんしゃさいくついせき)
徳島県阿南市水井町にある弥生時代後期~古墳時代前期にかけての辰砂採掘跡の遺跡である。2019年(令和元年)10月16日に国の史跡に指定され、出土品は2022年(令和4年)に国の重要文化財に指定されている。
【概要】
徳島県南部を東流する那賀川の支流である若杉谷川の西側に広がる山腹斜面に形成された、弥生時代後期から古墳時代前期にかけて、朱の原料である辰砂の採掘を行った遺跡。地表面には石灰岩やチャートの岩盤が多く露頭しており、岩盤中には部分的に辰砂結晶を含む石英脈がみられる。辰砂の採掘はこうした石英脈を狙って岩盤そのものを打ち割ることで行われており、採掘場所として石灰岩を割り取る露天掘りによるものと、チャート岩盤を横穴状に掘り進めるものの2か所が確認されている。採掘場所を中心とする広範囲において辰砂の採掘に伴い打ち割られ廃棄されたとみられるズリ場が広がっている。岩盤の打ち割りだけでなく、石杵・石臼を用いた荒割りや潰しといった加工が一部行われている。石杵には香川県東部で産出する火成岩であるヒン岩製のものがあり,採掘道具として持ち込まれたものとみられる。出土土器には在地産の他に、鮎喰川下流域産や香東川下流域産のものがあり、それら地域の集団も辰砂の採掘に関わっていたとみられる。
2024年の調査で弥生時代後期に火を利用して採掘したとみられる国内最古の痕跡が見つかり、翌年1月19日に発表された。チャートの岩盤から幅約40センチ、深さ約50センチのくぼみが見つかり、鉱脈に沿って人為的に掘られ、壁面に黒いススが残ることから、火入れ法による採掘の跡の可能性が高いと判断された。これまで国内での火入れ法の利用は江戸時代初期の山形県の延沢銀山遺跡が最古とされていきたが、若杉山辰砂採掘遺跡で使われたとすれば1400年以上早く利用されていたことになる。火入れ法は古代ローマや漢代の中国などにあった技術で、当時の世界基準の採掘技術が導入されていたと考えられる。
弥生時代から古墳時代にかけて朱は銅鐸や土器、埋葬施設に塗布され、葬送儀礼で用いられる等重用されており、その原料である辰砂採掘の在り方を示す遺跡として重要である。
●藤井榮氏の説
●オキタリュウイチ氏の説
●恋塚健生氏の説
●ANYA氏の説
●コラク氏の説
●ヤマモトタケルノミコト氏の説
●三村隆範氏の説 (今回は休載)
●島勝伸一氏の説 (今回は休載)
藤井榮氏の説/邪馬台国時代の全国唯一の辰砂採掘遺跡「若杉山遺跡」
◆『其山有丹※1』(その山に丹(たん)あり)、あまりにも有名な魏志倭人伝の一節、そして邪馬台国論争に決着を付ける決定打の一文です。素直に読めば「其の山」は全国でここ徳島県阿南市水井町の「若杉山辰砂採掘遺跡※2」以外には存在しないのです。3世紀前半の邪馬台国時代に現に辰砂が採掘されたことが確認できる遺跡は当該遺跡以外には存在しません。 ◆このことは昭和40年代、早稲田大学考古学教室による全国360数か所の調査結果からも明らかで、当該遺跡からは昭和20年代から数度の調査結果によって弥生時代末期から古墳時代にかけての土器や石臼、石杵、辰砂等が発見されています。
◆我が国では古来「丹(たん)」を「に」と呼んできましたが、これを裏付けるように当該遺跡以西の那賀郡那賀町には「仁宇(にう)」・「小仁宇(こにう)」の地名や「仁宇八幡神社」(旧「仁宇神社」)、「丹生谷(にゅうだに)橋」などゆかりの地名等がたくさん残されています。那賀町が古来「丹生谷」地方と呼ばれる所以です。 ◆平成30年徳島県教育委員会と阿南市が改めて合同調査を行った結果当該遺跡でエポックメイキングな発見がありました。若杉山の従来よりも上の山腹(標高245m)で全長12.7m、の“坑道跡”が確認され、弥生時代後期(1~3世紀)の国内最古の鉱山遺跡※3であると確認されたのです。 ◆徳島文理大学の大久保徹也教授は、「鉱脈を探し坑道を掘るには高度な技術が必要で辰砂の採掘や加工を生業としていた組織的な集団がいたことになり、弥生時代のイメージを変える発見!」と驚きのコメントをされております。
◆この丹(朱)について深い解説をされているのが、阿波の大先覚「岩利大閑」です。 ◆曰く「‥この阿南市水井町の丹鉱床跡が我が国最古の丹生産地として認められています。古代は“天赫(あめのあか)”と呼ばれ、八倉比売御本記でも天赫の効用が記されています。伊邪那岐命・伊邪那美命の子の「波邇夜須比売(はにやすひめ)」もこの丹の管理者で、式内『建嶋女祖命(たけしまめおやのみこと)神社』(小松島市中田町)で祀られています。 ◆水井の丹(鶏冠石)は‥阿波では太古より神々の祭祀には絶対欠かせない重要な宝物なのです。 ◆水井の川の両岸に数多くの鍾乳洞があり、太龍寺の“龍の岩穴”といわれる鍾乳洞も太古より鶏冠石の鉱脈に沿って掘られた石灰層ゆえに風化し、だんだんと大きい鍾乳洞※4になったものと考えられています。」
◆また曰く「他国とは違って阿波の古神社の周辺には祭りの時に産土子(うぶすなのこ:氏子)が相集い阿波の青石(結晶片岩)の上でわずか少量の丹を摺り延ばした跡(一寸ほどの小さな窪み)がある石が転がっています。 ◆時には社殿の石段に使われたり石垣に組み込まれたりしていますが、丹を摺り延ばすときに出来た石の窪みなのです。 ◆また神社の柱の台石等に用いられている青石の表面に小さな丸いくぼみが幾つも付いているものも見られますが、これは棒石で丹を摺りつぶし、男女共に顔面に塗って神事を行っていた名残で、白妙を丹摺りした赤色の衣服も身に纏っていましたが、この「丹摺(にずり)」、神別・皇別の姓を持つ貴人に限られ、神祇の時とか天皇の前に参上するとかの時にのみ纏う習慣なのです。 ◆‥古事記に記された物語の時代に「丹摺」が行われたのは阿波のみの習慣ですから、他国の方はおそらくご存じないのではないでしょうか。 ◆古事記雄略記(引田部の赤猪子)には「丹摺の袖」と見えます。 ◆丹について他国の人もあまり関心がなく知らないのは、弥生時代より丹を産出した遺跡が発見されているのは若杉山遺跡が唯一のもので衣の丹摺りに用いられた丹摺木(にずりぎ)が出土しているのも阿波国のみに限られているためかもしれません。」
◆「‥天皇の乗る船は“赫舟(あかぶね)”といい丹で塗り上げるのです。最近も徳島市加茂名町で丹摺に用いた(丹摺木)用具が出土しましたが、他に例がないため考古学の方々も明解な説明がなされずに砧(きぬた)の一種か?などと真に馬鹿馬鹿しいことを言っています。 ◆考古学に携わる方々も記紀をはじめ古代歌謡等の古文に親しみながら古代史の研究をしないと発掘現場の歴史的位置が分からないと思いますよ。 ◆この丹摺木がのちに印肉を用いる“ハンコ”になってくるのです。 古代における丹は非常に貴重な宝物で、入手困難な他国ではあり得なかった阿波国の古風習の一つです。」(以上、岩利大閑著「道は阿波より始まる」その二77・78頁、その三84頁参照)
◆いかがですか。これが阿波というところなのです。
※1 「丹」は通常「朱」と呼ばれるもので自然界においては正に朱色の石・砂として存在し、考古学の分野ではこれを「水銀朱」、地質学では「辰砂」、化学では「硫化水銀(HgS)」といいます。 ※2 四国霊場第20番札所鶴林寺と第21番札所太龍寺の間の那賀川南岸から太龍寺方向に位置する山中に存在 ※3 これまでの国内最古の遺跡は、8世紀の山口県美祢(みね)市の「長登(ながのぼり)銅山抗跡」で、若杉山遺跡の坑道跡はこれを一気に500年以上も遡ったのです。 ※4 那賀町和食郷田野の「氷柱(つらら)観音」もその一つです。
【参照リンク】
① YouTubeチャンネル古代史塾 「魏志倭人伝「その山に丹あり」弥生時代唯一の朱の王国」
②小著『古代史入門』29・30頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ45(199~202頁)、(Amazon電子書籍・印刷本)
▲「朱の付着した丹摺木」(古事記雄略天皇の記述に「丹摺の袖」とみえる)。
【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】 [問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp |
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オキタリュウイチ氏の説/阿南の若杉山辰砂採掘遺跡がヤバ過ぎた! これを読めば、徳島県は邪馬台国で結論!
徳島は、邪馬台国。終了! え、もうちょい詳しく知りたいって?いっぱいあるんだけど、決定的な証拠が3つある。
①日本最古の「前方後円墳」が鳴門にある。 日本における前方後円墳(古墳時代に築造された前方部が方形、後方部が円形の独特な形の古墳)の築造は、天皇家にまつわる独特の古墳なんだけど、日本で最も古い前方後円墳が徳島県内で見つかっているんだ。鳴門にある「萩原2号墳墓」。これは、この地が日本の古代史において切っても切り離せない存在であることを表している。
② 「縁起式内社・倭大国魂神社」が徳島にある。 この神社は、本来、倭にしか存在しえないはずの倭の国魂を祀る神社であり、その神社が徳島にしか存在しない、という事実は、実はすごい事なんだ。徳島=倭、で終了。
で、③つめが今回のテーマ。 阿波が古代日本にとって重要な地であった証拠のうちの一つが、古代の祭祀に不可欠であった水銀朱(辰砂)の採掘遺跡の発見なんだよね。
◾️『魏志倭人伝』に書かれた、水銀朱(辰砂)の出土。
『魏志倭人伝』には、邪馬台国の特徴が記されている。 魏志倭人伝の記述によると、「其の山には丹(辰砂・水銀朱)あり」と記されている。辰砂は、水銀の原料となる赤い鉱物であり、古代社会において極めて高い価値を持っていた。 邪馬台国の人は、丹を祭祀や呪術に用い、丹を顔に塗って魔除けにしたり、身分の高い人の埋葬時に遺体に振りかけて腐敗を防止したりしてたんだよ、と。 だから、邪馬台国には水銀朱(辰砂)がなければいけない。なのに、全国の邪馬台国説を名乗る地には、水銀朱が出土していないんだ。おかしいでしょ?(笑)。徳島県阿南市には、まさにその水銀朱の日本一の巨大産地が存在する。若杉山遺跡では、弥生時代後期から古墳時代、前期にかけて辰砂を採掘した跡が発見されていて、粉砕用の石皿や、精製用の土器も出土してるんだ。 加茂宮ノ前遺跡では、水銀朱の生産だけでなく、祭祀に用いた痕跡も残る。全国の古墳で発見される朱は、この徳島産の水銀朱とされている。奈良の箸墓古墳や、大阪の仁徳天皇陵にも徳島由来の種水銀朱が確認されているんだよね。丹がないとダメ、って古代の人は信じてたらしい。鳥居が丹色なのも、魔除けに辰砂を使っていた名残りなんだ。
◾️圧倒的な出土量。
遺跡からは、加工された水銀朱の玉が1,000個という驚異的な数で出土しました。この発見以前は、伊勢の遺跡で出土した水銀玉3個が最大とされていたんだが、阿南市の遺跡の出土量はこれをはるかに凌駕するものであり、この地が古代において最大規模の辰砂供給地の一つであったことを証明しています。 幻となった歴史的大発見 。
◾️ 地元での反響と全国的な無関心。
この大発見は、地元紙である徳島新聞では大きく報じられたんだよね。でも、徳島の人たちも、「日本最大級の水銀朱の採掘場発見!」と言われても、その価値(水銀朱って何なの?とか、どのくらい凄い発見なの?とか)が徳島の人々にも十分に理解されなかった。結果として、歴史的にも類を見ない大発見にもかかわらず、全国的にはほとんど知られない状況で終わっちゃったんだよね。 今こそ、もう一度見直すべき時に来てるのかもしれない。わかりやすく伝えていこう!
▲圧倒的な出土量。
【執筆/オキタリュウイチ】 [問い合わせ先]office@deepbranding.jp |
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恋塚健生氏の説/若杉山辰砂採掘遺跡は「邪馬壹国、阿波説」の証明とはならない!
邪馬台国阿波説論者は、何十年も前から若杉山辰砂採掘遺跡を、邪馬壹国の決定的な証明であるかのように主張しているが、それは間違っている。
理由は、魏志倭人伝に記述されている「其山丹有」の其とは、邪馬壹国を指していないからである。では、其とはどこを指しているか?と言うと、邪馬壹国や投馬国や小国全体を指す女王国、すなわち愛媛、香川、徳島の全体のことであり、徳島のことをだけを書いているわけではないのである。また、詳しくここでは書かないが、そもそも邪馬壹国は徳島全体のことでもない。このことを阿波・徳島説を支持する人は知らなければならないと思う。
あくまでも、邪馬壹国阿波説においては、数学的論法から完全に証明できており、若杉山の辰砂は、魏志倭人伝の記述における一つの根拠を説明しただけにすぎない。
しかし、魏志倭人伝に記述されているかぎり、辰砂が弥生時代に採掘されたことを説明できなければ、そこは女王国ではない。すなわち、九州説も近畿説もまた、全国にあるわけのわからない比定地も邪馬壹国ではないのである。
またネット等で見かけるが、辰砂のことをベンガラであると主張する人がいるが、お笑いである。ベンガラなど全国各地で採れる赤土みたいなものであり、赤土を魏国の贈り物にしたり、女王国の贈り物にしたりはしない。
【執筆/恋塚健生(こいづかたけう)】 [問い合わせ先]ogenkisama0@gmail.com |
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ANYA氏の説/2025年10月の大発見で、阿波は邪馬台国と決まるのでは?
「其山有丹」これは、魏志倭人伝に記された一文です。現代語訳しますと、「其の山には丹(水銀朱)が有る」となります。丹(水銀朱)は、辰砂とも呼ばれる鮮やかな赤色顔料で、古代の中国や日本では、主に古墳や墓などに埋葬される遺骸に塗られたり、あるいは棺に敷き詰められる、大変希少で高価な鉱物です。邪馬台国が存在した時代、日本の水銀朱鉱山は、阿波の若杉山辰砂採掘遺跡しか存在していません。
「其山有丹」、この一文からも阿波に邪馬台国が存在した証になるのは確実だと私は思いますが、現実はそうはなっていません。これだけ明確なものが有るのに、何故なのか?答えは簡単で、邪馬台国、畿内説、九州説の学者や論者は「その山」とは、邪馬台国を指しているのではなく、倭国全体を指しているので、たとえ「丹が有る」の一文が阿波の若杉山辰砂採掘遺跡を指していたとしても、阿波が邪馬台国とは限らないという見解だからです。つまり「其山有丹」は「日本には水銀朱が採れる山が有る」という意味で、阿波が邪馬台国とは書いていないという事なのです。はたしてそうでしょうか?
偶然にもこの記事を書いている2015年10月にある大発見が発表されました。若杉山水銀朱採掘遺跡で、2024年に弥生時代のヨーロッパや中国と並ぶ世界水準の採掘技術【火入れ法】(岩盤の表面をマキで熱して、もろくしてから採掘する方法)の痕跡が発見されていましたが、若杉山の【火入れ法】は、1~3世紀の国内最古のものと、阿南市と東京大学総合研究博物館の調査で判明されました。つまり阿波の若杉山は、邪馬台国の時代に、世界水準の採掘技術を使い、大量に水銀朱を採掘していた日本で唯一の山、という事になります。
魏志倭人伝には「倭人は、水銀朱を体に塗っているが、それは中国で粉おしろいを使うようなものである」と書かれています。この文面から分かるのは、希少な水銀朱を大量に出回っている粉おしろいのように、ほとんどの倭人が体に塗っている事が読み解けます。そんなことができるのは、この時代には日本でここにしかない採掘場所で、当時の世界水準の先端技術を使い、大量に水銀朱を採掘ができていた阿波の国だけになります。魏志倭人伝のこの文面から読み解けば、阿波が邪馬台国だったという事は確定的と考えられますが、この事について邪馬台国、畿内説、九州説の学者や論者は、今度はどう曲解されるのでしょうか。
*①/YouTube ANYAチャンネル107参照
【執筆/ANYA(アンヤ)】 [問い合わせ先]anyautb@gmail.com |
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コラク氏の説/若杉山の真の姿とは!?
徳島県阿南市にある若杉山遺跡は、弥生時代後期~古墳時代前期にかけての国内で唯一発見されている辰砂採掘遺跡である。辰砂とは、日本では古来より「丹(に)」と呼ばれた水銀鉱物のこと。 炎や血と同色である朱色の色彩から、呪力・霊力があると信じられ、主に弥生~古墳期の身分の高い人物の埋葬儀礼等に使用され、また顔や体に塗ることで魔除けとしていたようだ。
この若杉山遺跡の弥生後期の遺構から、当時の先進技術となる「火入れ法」を行っていたことが確認された。これは古代ローマや中国(漢)で行われていた世界基準の採掘技術が、当時の徳島県の県南地域に既に導入されていた事を示唆している。
一方、古代中国では、丹(たん)は不老不死の仙薬として珍重されたようだ。 道教では、服用すれば不老不死を得る霊薬を作る錬丹術があるが、これにより獲得できるのがいわゆる「賢者の石」と呼ばれるものだ。 中国前漢時代の司馬遷によって編纂された歴史書『史記』によると、「而巴寡婦清、其先得丹穴而擅其利數世」、「巴の地方にいた清という名の寡婦は、先祖が丹穴を手に入れたことで、数世代にわたり巨利を得ていた」とあり、丹の発掘地を見つけた人物が莫大な財産を得たという記述がある。
つまり「丹」の価値を知る当時の徳島県は、その高度な技術を生かして大量生産し、交易で得た莫大な財産を背景に対外的に多大なる影響力を有していた地域であったと考えられるのだ。 私的にはこの先進技術や文化が如何にして伝来したのかという点に注目しており、『史記』及び『後漢書』の記載から関係する部分を要約すると、不老不死の仙薬を求めた秦始皇帝の命により、方士徐福を東南の海にある蓬莱山へと派遣したが、そこにいた海神に薬を求め願うも結局のところ持ち帰ることができなかった。望みを捨てきれない始皇帝は、海神の欲する財を献上することにしたが、再度派遣した徐福がいつまで待っても帰って来ず、そこに留り後に王となったと記されている。
記録にある中国の渤海より東南の海にある島といえば、日本列島を指すことから全国各地で徐福伝説が残るようだが、上記の伝承からも徐福は「丹」を求めて若杉山の地を含む太龍寺山を目指し、結果当地に留まったのではないか。と私は考えている。 稿の字数制限の関係上、この記事の詳細についてこれ以上は書けませんが、詳しくはブログの方に記載しておきますのでそちらにてご確認いただきたい。
【執筆/コラク】 [問い合わせ先]なし |
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ヤマモトタケルノミコト氏の説/若杉山辰砂採掘遺跡 『魏志倭人伝』の「其山有丹」を裏づける地
『魏志倭人伝』には「女王国に、その山に丹有り」と記される。この「丹」とは水銀朱、すなわち辰砂のこと。磨り潰せば鮮やかな赤を放ち、古代では生命と再生を象徴する“神の色”として、祭祀や王墓を彩り、巫女や王の権威を示す重要な素材と言われています。
徳島県阿南市の若杉山辰砂採掘遺跡こそ、「その山に丹有り」にあたります。弥生時代後期というまさに卑弥呼の時代に、朱の原料・辰砂を採掘していた痕跡が残されている。注目すべきは、火を使って岩を割る「火入れ法」という高度な技術で、これは当時の中国やローマと同じ先進的な採掘法で、日本列島では最古級の採掘技術が使われていたと考えられます。私は若杉山こそ倭国の中でも最も文化が発達した地域であり、女王国・邪馬台国の中心にふさわしい最先端の地であったと考えています。 さらに、辰砂を通じた国際的交流も感じられます。古代の世界では水銀朱は権威と祭祀の象徴として珍重され、広く交易された。若杉山は四国を中心とする「朱の交易ルート」の要地であり、太平洋や瀬戸内を通じて中国大陸とつながっていたと考えられます。『魏志倭人伝』に記された卑弥呼の魏との交流、親魏倭王の金印授与なども、阿波を拠点とした海上交易が支えていたと思っています。
また少し話は変わりますが、秦の始皇帝の時代に、不老不死の薬を献上するとして東方へ向かった徐福の伝承があります。彼は三千人の童男童女と百工(百人の技術者)を率いて海を渡り、ついに帰らなかったという。その目的地とされた「東方三神山」は、蓬莱山・方丈山・瀛州山と言われ、日本を指すと言われており、この伝承が事実で日本各地に徐福の関係者が多数来ており、阿波の地にも渡来系技術者集団が不老不死の薬(水銀朱)を探しに来た可能性もありますね。現状ではこれを結びつける証左はこれからですが(笑) 。
『魏志倭人伝』の「その山に丹有り」という一節は、単なる地理的記述ではなく、倭の女王・卑弥呼が治めた神聖な国の象徴であり、阿波の若杉山の辰砂(水銀朱)の山こそが、その真実と結びついています。二千年前の倭人たちが掘り出した赤き石は、まさに“日本最古の賢者の石”として、今も世界中に痕跡を残しており、徳島県阿南の地に輝きながら、再度世界中が発見する日を待っていますね。皆さん、現地見学ができるようになれば一度見に行きませんか。悠久の歴史を感じることができると思いますよ。
▲若杉山で採集した辰砂を加茂宮ノ前に船で運ぶ。
【執筆/ヤマモトタケルノミコト】 [問い合わせ先]heartfull80@gmail.com |
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三村隆範氏の説/
(編集部注)
三村氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。
【執筆/三村隆範(みむらたかのり)】
[問い合わせ先]連絡先090-8282-0328(三村) |
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島勝伸一氏の説/
(編集部注)
島勝氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。
【執筆/島勝伸一(しまかつしんいち)】 [問い合わせ先]080-3533-5146(島勝) |
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▶▶島勝伸一解説 岡元雄作監督作品 ドキュメント映画『ルーツ オブ ザ エンペラー』令和6年6月27日 四国古代史サミット東京(YouTube)
テーマ⑪【完】。
次回のテーマ⑫は・・・
「日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡」
記事公開日は2025年12月15日(月)。乞うご期待










