歴史・文化
2025/12/15 01:00
あわわ編集部
邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


小学生の社会の授業で習う、あの「邪馬台国」が阿波徳島にあったかもしれない説が盛り上がっている。魏志倭人伝など各歴史書からも符号する事象が多くあり、邪馬台国阿波説に関する書籍やWEB記事、YouTubeなどで各執筆者が自分の説を論じている。ただ、阿波説は完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。1800年も前の出来事を完全一致させることはほぼ不可能ということで・・・。それならば!それぞれの論者の説を一同に掲載することで、各説の微妙な違いや逆に一致している点などを比較できるようにしようと、まとめ記事を企画しました。この無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者はなんと8名も!毎回のテーマごとにエントリーして執筆してもらうスタイルでまとめていきます(エントリーしないテーマのときもあります)。それぞれが論じる内容を読み比べ、納得する説をお好みでチョイスしていってください。なお、当企画は阿波の古代史を通して徳島の魅力を再発見するというのがミッションなので、邪馬台国以外のテーマも登場予定です。

※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、
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邪馬台国は阿波だった!?テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


通説
遺跡の概要
加茂宮ノ前遺跡は那賀川の中流域の南岸、加茂谷川が合流する付近の標高約26mの自然堤防上に立地している。平成28年度から開始した発掘調査では、弥生時代中期後半から古墳時代前期初頭(紀元前1世紀から紀元後3世紀)の竪穴住居より、国内最古級の鉄器の生産を行った鍛冶炉が複数確認できた。加えて、縄文時代後期から弥生時代中期の集落において国内最大規模の水銀朱を生産していたことが発見されている。

調査成果
弥生時代中期末(紀元前1世紀前半:約2,000年前)の竪穴住居を中心とした集落が確認され、その東端の竪穴住居から「銅剣形石製品」が出土した。以下にそれらの特徴を記す。
(1)直径7mを測る18号竪穴住居の掘削調査中に出土したもので、共伴する土器から弥生時代中期末(約2,000年前)の年代が考えられる。
(2)銅剣形石製品は切っ先部分が欠損している。残存する大きさは長さ24.1センチメートル、幅5.4センチメートル、厚さ1.4センチメートル、重さ120gを測る。
(3)刃部が平行に整えられておりその中程の左右に刺(とげ)状の突起がある。平面形状は平形1(ローマ数字)式銅剣に類似している。
(4)石材は黒色の堆積岩が使用されている。類似した石材を使用した銅剣形石製品は畿内を中心に出土している。
(5)今回出土品の鑑定を依頼した愛媛大学ミュージアムの吉田広准教授によれば、本来存在していた表裏の樋(ひ)が研磨の進行によって失われかけていること、関部(まちぶ)に施された双孔(そうこう)の位置が下端から1.4センチメートルしか離れておらず、極めて低い位置にあることなどから、製作当初は細形ないしは中細形銅剣を模倣して製作したものが、再加工によって平形銅剣の形状に作り替えられたものと考えられる。

評価
弥生時代の青銅器祭祀の道具としては銅鐸と武器形青銅器(銅剣・銅矛・銅戈)が存在している。銅剣は当初朝鮮半島から実用品としてもたらされたものであるが、国内では祭器として細形から中細形、中広形、平形と次第に形を変えていったと考えられている。銅剣形石製品はおもに細形ないしは中細形銅剣を模倣したものであり、瀬戸内、近畿、北陸地方を中心として約80点出土しており、銅剣の役割を補完するように祭祀で使用されたものと考えられる。

今回出土した銅剣形石製品は県内初の出土であるとともに、平形銅剣を模倣して製作したものとしては全国初の例となる。本来、銅剣はその役目を終えると埋納されたり、破壊されたりしており、その模倣品である銅剣形石製品も同様に使用後は廃棄されるものと考えられているが、今回の加茂宮ノ前遺跡の銅剣形石製品は形状を変化させることによって再びマツリの道具として使用されたことを示す非常に珍しい例である。

これは近畿地方と同様に銅剣と銅剣形石製品を使用した祭祀を行っていた加茂宮ノ前集落の人々が、平形銅剣という新たな形の銅剣の受容に際して古い形の銅剣形石製品を再加工することで、地域独自の祭祀を行っていたと推定できる。今回出土した銅剣形石製品は加茂宮ノ前集落の人々が特産品である水銀朱を交換財として入手した可能性が高いと考えられることから、近畿地方との水銀朱の交易ネットワークを考える上でも極めて貴重な資料である。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡

▲銅剣形石製品が出土した竪穴住居。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡

▲銅剣形石製品出土状況。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡

▲銅剣形石製品。




オキタリュウイチ氏の説/さらに阿波が邪馬台国である証拠が!


もう全国の研究者は逃れられない。また証拠がどんどん出てくるよー!阿南で巨大なゴミ処理場を作ろうとして掘ってたら、世にも不思議なものが出てきた。

◾️歴史を塗り替える発見、国内唯一の「水銀朱」最大級採掘遺跡阿波の加茂宮遺跡は、平成28年度からの発掘調査で、徳島が邪馬台国の最有力候補地であることを決定づける証拠の一つとなった。歴史的な大発見と、その価値が全国的にも注目され、この種の説明会としては異例の1,000人以上の参加者が訪れた。

◾️水銀朱原料の辰砂は、国内最多前回も説明したとおり、「魏志倭人伝」によると、邪馬台国には『水銀朱(丹)』が出るとある。逆に言おう。水銀朱がない遺跡は、「邪馬台国ではない。」水銀朱は、古代祭祀に使用された。その関連出土品は約50万点に達するという、圧倒的国内最多なのだ。

◾️京都・下鴨神社の元社、「下加茂神社」の存在阿波は、鴨氏の発祥の地なんだ。京が阿波→奈良→京都と移遷した事実を考えると、徳島県三好市の加茂野宮には、京都の下鴨神社の元社である「延喜式内社・下加茂神社」、その付近には京都・上賀茂神社の元社である「延喜式内社・鴨神社」が存在する。鴨神社の御祭神は、『賀茂別雷大神(わけいかずち)』。何故ならこの地は、気象的に日本で1番雷が落ちるんだという。京都に「葵まつり」ってあるけど、「葵」の説明が出来ない。何故なら、阿波の鴨神社は、葵が自生してるんだ。そりゃそうだよね、阿波が本拠地なんだから。

◾️まさかの結末この遺跡は、ゴミ処理場を建設するための採掘作業中に偶然見つかったものだった。一時的に工事は中断され、調査と記録(写真撮影など)が行われたものの、最終的にはゴミ処理場の建設という行政的な必要性から、遺跡はそのまま埋め戻されちゃったんだ。いやー、悲しくない?みんな、もっと声を上げていこうよ!!

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡

▲現地説明会。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


【執筆/オキタリュウイチ】
オキタリュウイチ ディープ・ブランディング株式会社代表  元真言宗・僧侶 徳島県生まれ。早稲田大学中退。行動経済学に基づく経済心理学を独自の手法でマーケティングに応用し、数々の老舗企業再生等を行う。京都の老舗米屋を2400万円から20億円の売上にするなど、驚異的な成果を生み出す傍ら、同時に社会活動家として、自殺者撲滅や日本財団と共催し障害者の起業支援を行うなど、社会的課題の解決に取り組む。近年は、社団法人「日本神社再生機構」を立ち上げ、滅びゆく日本の神社の再生に従事する。 

[問い合わせ先]office@deepbranding.jp


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恋塚健生氏の説/加茂宮ノ前遺跡は、日本最古のコンビナート??


加茂宮ノ前遺跡が、日本最古のコンビナートという名称が正しいかどうかはわからない。なぜなら、日本の考古学会がそう言っていないし、学者による論文や出版物なども、ひとつも出ていないからである。また、コンビナートという言い回しも、我々は正しいとは思わない。前回のテーマでも書いたが、古墳や遺跡における在野の研究者の意見は、すべて考古学者の受け売りでしかなく、日本最古とか、古代における水銀丹生産地を、現代語に置き換えて言うのは、少し違うように思う。在野の古代史研究者の問題にしなければいけない本質は、日本最古とかコンビナートとかではなく、加茂宮ノ前遺跡がなぜそこに存在するのか?である。

水銀丹が採掘できる若杉山が近くにあるからと言ってしまえば、それまでであるが、答えは違う。若杉山ではなく、隣接した太龍寺山であり、後のテーマで書く可能性もあるが、太龍寺こそ日本古代史を解明するキーポイントであり、古事記研究の基本と言えるものがそこにある。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


【執筆/恋塚健生(こいづかたけう)】
阿波の古代史、ひいては日本の古代史は、神社や考古学だけでは説明が付きません。私達は数年前に「邪馬壹国」は数学とITで、「古事記」は漢字の読み解きとITを使って、阿波・徳島が「邪馬壹国」であり「古事記の舞台」であることを説明できるようになりました。理系の考え方は全てエビデンスに基づくロジカルシンキングであり、場当たり的な我田引水の説明とは全く異なります。小学生にも分かる丁寧な説明を心掛けています。

[問い合わせ先]ogenkisama0@gmail.com


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▶▶魏志倭人伝を最新技術で読み解いた!(YouTube)






ANYA氏の説/古代日本の水銀朱技術者は、全て阿波出身


中国では、最古の殷王朝よりもさらに古い、紀元前五千年もの昔から葬送儀礼で用いられた水銀朱。
日本では、邪馬台国時代の1世紀初頭から3世紀後半に採掘が認められる、徳島県阿南市水井町の那珂川流域にある「若杉山遺跡」が最古の水銀朱採掘跡になります。2014年におきた台風被害の堤防工事が、「若杉山遺跡」から少し下った那珂川で行われましたが、その時に行われた発掘調査で発見されたのが、縄文時代から営まれた我が国最古最大の水銀朱生産遺跡である「加茂宮ノ前遺跡」です。

国内最古の水銀朱生産遺跡のすぐ近くに、国内最古最大の水銀朱生産遺跡が有るという事は本当に凄い事で、水銀朱採掘から生産までを、同地域で順を追って続く一連の流れは、まさにコンビナートなのです。
2000年前の古代において、阿波の山奥にこれだけの鉱物採掘の工程を造れるという事は、やはり古代の阿波は、それだけとんでもない国だったという事にほかなりません。

「加茂宮ノ前遺跡」の発見まで、縄文期から続く、最古最大の水銀朱生産の拠点とされた三重県の「天白遺跡「「森添遺跡」は、水銀朱関連の出土物は数十点に留まりますが、「加茂宮ノ前遺跡」は、その数十倍の規模となり圧倒的な規模の違いが認められています。以前私は、動画を作成する為に水銀朱を考察していて、たいへん不思議に思ったことが有ります。
「天白遺跡「「森添遺跡」は、縄文期から続く水銀朱の拠点とされていますが、この近くからは若杉山のように、大規模な水銀朱採掘の痕跡が、縄文どころか弥生時代が終わるまで発見されていないのです。なのに縄文から弥生にかけての水銀朱生産の拠点とは、、、どういう事なんでしょうか?

そこで色々と調べているうちに、私なりの答えを導きました。「天白遺跡「「森添遺跡」も古墳時代には水銀朱採掘が認められることから、おそらくこの辺りは、少量では有るが水銀朱が露天掘りで採掘されたのだと思います。しかしその水銀朱を採掘するには、やみくもに掘ってもダメで水銀朱埋蔵箇所の知識や、採掘の技術が必ず必要です。若杉山の水銀朱も古墳時代には枯渇することから、おそらく阿波の水銀朱技術者たちが、水銀朱を求めて日本各地に出向いたのだと考えられます。
その証拠に、「天白遺跡「「森添遺跡」からは、縄文期から信仰された阿波の結晶片岩製の石棒が数多く出土しています。

 *①/YouTube ANYAチャンネル107参照

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


【執筆/ANYA(アンヤ)】
人気の大阪在住の古代史YouTuber。書籍「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 阿波(徳島)から日本が始まった。日本の起源も邪馬台国も四国にあった。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 歴史から消されてきた阿波の古代史が明らかになる。ヤマト政権から天皇家の起源などに関して独自の見解を述べる。 

[問い合わせ先]anyautb@gmail.com


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コラク氏の説/


(編集部注)
コラク氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


【執筆/コラク】
日本の特に徳島県(阿波)の古代史を中心に研究をしております。古代の阿波の人たちが日本の国家形成にあたりどのような形で関わって来たのか。また、魏志倭人伝や古事記等の歴史書や古墳・遺構遺物、寺社のご由緒に地域の昔話等々...様々な角度観点から独自の解釈をもって古代を考察しております。

[問い合わせ先]なし


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ヤマモトタケルノミコト氏の説/加茂宮ノ前遺跡 ― 若杉山の“朱”で世界と交易した倭国最古のコンビナート


徳島県阿南市の静かな山あいに佇む加茂宮ノ前遺跡は、少し前から考古学界を驚かせる“超古代の製造拠点”として注目を集めています。この地は単なる集落跡ではありません。縄文時代から続くと言われており、若杉山を含めた近隣の場所から掘り出された辰砂(しんしゃ)等の鉱物を加工し、朱の製造や金属精錬を行っていたと考えられています、日本最古級の工業コンビナート跡である可能性が高まっているのです。

縄文時代の遺跡である、加茂宮ノ前遺跡には、川をはさんで500mほどの距離に深瀬遺跡があります。加茂宮ノ前遺跡からは、円形の配石遺構、炉跡、竪穴住居跡、大量の縄文土器や石器とともに、土偶や耳飾りなどの出土や、大量の石臼・石杵と辰砂原石が発見されたことが注目されます。 加茂宮ノ前遺跡では辰砂の精製は約4,000年前頃の行われていたようで、住居跡では鍛冶も行ない、また石臼や石杵を使って辰砂の精製を行なわれ、サヌカイトで石鏃なども作っていたと。採掘~精製の工程をどのように役割分担していたのか、また、若杉山辰砂採掘遺跡以外にも辰砂の採掘地点があるのではないかといったことなど謎や課題はまだまだ多数ですが、早くこの地域一帯の調査研究が進んで欲しいですね。

このコラムで何度も書きますが、『魏志倭人伝』には、邪馬台国の南方に「其山有丹(その山に丹あり)」と記されています。この“丹”が辰砂であり、その供給地が5キロ上流の国指定史跡若杉山辰砂採掘遺跡。そしてここ加茂宮ノ前遺跡こそ、採取した辰砂を加工し、朱に精製し、時に金属や鉱物を高度に処理していた中心拠点だったのです。最近は若杉山から“技術の痕跡”火によって岩盤を割る火入れ技術が発見され、さらに近くでは、複数の工程を分担した作業場跡、一定の温度を維持するための炉の構造等々。これらは古代の阿波の人々が、世界最先端ともいえる素材加工技術を持つ高度技術集団だったことを証明しています。

纏めると、加茂宮ノ前遺跡は谷川沿いの地形を活かし、原料の搬入、精製、流通までを一体化した、まさに古代版インダストリアル・シティ(工業都市)。若杉山やその近辺からの辰砂(鉱物)を舟等で運び、ここで精製した朱は、やがて祭祀、王墓に使われました。他は、鏡・玉・鉄器などのハイテク製品へと姿を変え、倭国の政治・宗教・文化の中心を支えた国家規模のプロジェクトだったと考えられます。 古代の狗奴国との争いや、倭国大乱、それは間違いなくこの地方での資源争奪戦争でもあったと私は考えています。多くの人間が部族間(派閥)で利権を取り合っていた。人の営みは何千年たっても変わりませんね。古代史を学ぶと人間の本質や先人の知恵や崇高さを感じますね。この場所を想像すれば、超古代から人々の息遣いが聞こえてきます。「ここが倭国の経済の中心・源だった」と山からの風と、私の吐息(鼻息)が語りかけてきますね。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡

▲加茂宮ノ前。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


【執筆/ヤマモトタケルノミコト】
阿波古代の素晴らしさを広く伝えるために日々走り回っている阿波古代伝道師。とくしまクチコミ大使!(徳島商工会議所)。邪馬台国は阿波だった!ラジオMC(エフエムびざん)。アワテラスラボ 理事長。阿波ヤマト財団事務局長。徳島県 観光審議員。徳島YEG:卑弥呼フェス開催。映画「少女H」撮影上映。徳島JC:映画「佳歩」撮影上映。口ずさめとくしまの歌!開催。

[問い合わせ先]heartfull80@gmail.com


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▶▶邪馬台国は阿波だった!(YouTube)
▶▶アワテラス歴史研究所アワラボ(Facebook)
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島勝伸一氏の説/日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


11回は若杉山遺跡だったのですが第12回テーマ「加茂宮の前と若杉山遺跡」について書きます。
こんにちは 第12回テーマは 加茂宮の前遺跡ですが、前回第11回の若杉山遺跡とは直接関係があるので、まとめて述べさせていただきます。 まず、アフリカ東海岸20万年前に発生した新人類が日本列島にたどり着き、遺跡を残したものを古い順から調べる。
① 旧石器(先土器:岩宿)遺跡と縄文時代草創期遺跡(10,150ヶ所)から農業文化による、貧富格差がある国家形成迄を日本石器学会刊行の年表でご確認ください。その中で旧石器時代3.5万年前から1.5万~1.2万年まで2万年間以上続き、この後、土器が考案され、火で煮炊きする食文化や保存法が生まれ、縄文文化時代へと移る。特に、この旧石器時代、日本列島に人類は住んでいなかったというのが、学界の定説でしたが、これを覆えしたのが、1946年(昭和21年)に在野の考古学研究者相沢忠洋氏が発見した岩宿遺跡(3.5万年前~2.5万年前)です。

②ところが、2009年、島根県出雲市多伎町砂原の後期旧石器時代とされる遺跡は、なんと12~11万年前に遡るとされる。 これは、20万年前に、新人類が発生して、20万年前に出アフリカし、7万年前にアラビア半島で東西に分かれた新人類のうち、東へ進み、舟を操り黒潮に乗って、4万年前に日本列島各地へ上陸した、という定説が覆る大発見か?大間違いか?の学説です。

さて、我が阿波の国での最古の遺跡は那賀川を遡り鷲敷(和食)町との境に793年桓武天皇勅願の四国霊場21番札所太龍寺あり、その北側の若杉山には1世紀弥生後期から3世紀にかけて、辰砂が採掘され、水銀朱加工関連石器などが数万点発見されていて、これが8世紀末太龍寺で修業した空海が、この水銀朱を活用して、唐に渡り高僧に直接指導を受けたとの伝聞もある。それほど全国いや中国迄魅了した貴重な水銀朱を、大量に加工した加茂宮の前遺跡が2016年から発掘され、縄文時代後期(AD0年)から朱の生産が行われ、全国の古墳に等に使われた。弥生時代の中期後半(AD150)から古墳時代(300年)くらいまでは、朱に加え、日本最古・最大の鉄器の生産を行ったのが加茂宮の前遺跡です。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


【執筆/島勝伸一(しまかつしんいち)】
NPO法人吉野川に生きる会代表理事。阿波ヤマト財団評議員。NPO法人吉野川に生きる会 その事業の一つに、歴史を通じた街おこしに取り組むNPO法人「吉野川に生きる会」として卑弥呼サミット等を開催。郷土史家として島勝理事長や愛媛大学の越智正昭・客員教授らが、出土品や地質学、気候などの観点から阿波説について解説し阿波古代史を広くPRしている。

[問い合わせ先080-3533-5146(島勝)


島勝伸一氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・

▶▶島勝伸一解説 岡元雄作監督作品 ドキュメント映画『ルーツ オブ ザ エンペラー』令和6年6月27日 四国古代史サミット東京(YouTube)





藤井榮氏の説/菅原康夫氏予言の一大ターミナル遺跡「加茂宮ノ前遺跡」


◆平成から令和の御代への変わり目に徳島県南で超弩級の発見がありました。平成28年から29年にかけて発掘された阿南市加茂町宮ノ前の「加茂宮ノ前遺跡」です。 ◆那賀川中流域右岸、標高26mの自然堤防上に立地するも平成26年台風11号で未曾有の大洪水により地域一帯が大災害に見舞われ、那賀川河川(加茂堤防)改修事業の際に発見されたのです。

◆この遺跡の存在を予言していた人物がいます。徳島県を代表する考古学研究者菅原康夫氏です。氏はかつて平成18年(2006)開催のシンポジウム※1で次のように述べておられました。「‥県南の那賀川流域には、今のところ大規模な集落遺跡は見つかっておりませんが、若杉山遺跡をはじめ、朱の生産に関連した遺跡群※2があって、ここからは七個ほどの銅鐸が出土しております。‥」 ◆菅原氏の予言したこの遺跡は、徳島県立埋蔵文化財総合センター主催による二度の現地説明会で次のような驚くべきことが分かりました。

◆第一回目(平成30年7月14日)開催の現地説明会によれば、弥生時代では2つの時期の集落が確認され、①中期末~後期初頭(約2,050~1,950年前)の集落からは20軒の竪穴住居が、②後期後半~古墳時代初頭(約1,800~1,700年前)の集落からは22軒の竪穴住居がそれぞれ見つかっています。 ◆中でも注目されるのは、鉄器製作のための国内最古級の鍛冶炉を備えた竪穴住居で10軒の竪穴住居から鍛冶炉が発見されており、最も大きい約7mの竪穴住居では床面が赤く焼けた場所(鍛冶炉)が19箇所見つかり、その周囲からは鉄器の形状を整えるための台石・敲石(たたきいし)や製品の仕上げを行うための砥石(といし)などが出土しています。(鍛冶炉の使用時期はいずれも中期末~後期初頭) ◆徳島県内における弥生時代中期末の鍛冶炉の発見例はこれまで鳴門市や吉野川下流域でしたが、県南地域では加茂宮ノ前遺跡が初めての例です。 ◆なお、鍛冶炉が発見された竪穴住居からは水銀朱の生産に使用した石杵(いしきね)・石臼のほか糸を紡ぐ道具である紡錘車(ぼうすいしゃ)などが出土し、鉄器製作以外にもさまざまな道具類製作のための作業場として使用されていたと考えられます。 ◆これらの集落は同時期の吉野川下流域の大規模集落(矢野遺跡・名東遺跡など)に比しても遜色のない規模で、若杉山遺跡よりも確実に古い時期の弥生時代中期末から後期初頭に辰砂を利用して貴重な水銀朱の生産を行っていたことが確認されたのです。

◆第二回目(平成31年2月23日)開催の現地説明会によれば、弥生時代中期末(約2,000年前)の生活面より約1m下から縄文時代後期(約4,000~3,000年前)の集落が発見されました。 ◆中でも注目されるのは、県内で初めて発見された祭祀施設とみられる「円形配石遺構」で、竪穴住居に隣接して検出される例は西日本で初めてで生活域と祭祀を行った場所が一体として確認された貴重な例であり、耳飾り・ペンダントなどの装飾品類や祭祀具の石棒類などが出土、当時の人々の暮らしが狩り・採集といった食料調達のみに追われる毎日ではなかったということです。 ◆今回の最大の発見は縄文時代の遺物包含層や遺構内から出土した水銀朱を生産するための道具類です。 ◆水銀朱の付着した石杵・石臼が300点以上、原料となった辰砂原石も多量に出土しており、縄文時代の水銀朱関連遺物の出土数としては国内最大規模。 ◆水銀朱の具体的な使用状況が分かる水銀朱が塗られた土器や耳飾りも出土しており、この地域における水銀朱の生産、利用時期が前回の説明会(平成30年7月14日)で発表した弥生時代中期(約2,000年前)より1,500年以上も遡ることが明らかとなったのです。

◆以上、二度の説明会で本遺跡は縄文時代後期から古墳時代初頭に至るまでの長きにわたり連綿として水銀朱の精製を中心として、また鉄器を中心に各種道具類製作の中心地であったことが明らかとなりました。当時の人々にとって重要な県南一大拠点、ターミナルであったと考えられます。 ◆本遺跡の出土物は調査表面積1ha余(延面積2ha余)だけで全体実に100万点を優に超え、畿内説が探し当てた三重県松阪市小片野(おかたの)町の「太田・臼ヶ谷遺跡※3」などとは質・量の桁が遙かに違うのです。

◆正に「朱」の王国の名にふさわしい地、魏志倭人伝に記された「其の山に丹あり。」に該当するのは全国で阿波以外にはなく邪馬台国(邪馬臺(やまと):倭)勃興地と言えるでしょう。 ◆このような素地の下、古事記でいえば天照大神(卑弥呼)の弟、須佐之男命を祖とする「加茂族」新興へと繋がっていく阿波県南「雄の国」の姿です。

 ※1 平成18年(2006)10月14・15両日奈良県香芝市二上山博物館で行われたシンポジウム『邪馬台国時代の阿波・讃岐・播磨と大和』(同名で平成23年学生社出版所収272頁参照) ※2 中野遺跡、寒谷遺跡、丹波抗口、野尻石灰岩採掘跡、奥ノ谷遺跡、津乃峰山洞窟遺跡群計6か所(阿南市教育委員会) ※3 阿南市教育委員会も紹介されていますが、筆者が三重県埋蔵文化財センター、松阪市文化財センターに電話確認をしたところ、驚くことに両センターとも当該遺跡については確認しておらず、出土物についても知らないというような遺跡でした。                                          

【参照リンク】
①YouTubeチャンネル古代史塾 「魏志倭人伝「その山に丹あり」弥生時代唯一の朱の王国」 

② 小著『古代史入門』20~23頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ46(203~206頁)、(Amazon電子書籍・印刷本)

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡

▲「現地説明会風景(平成31年2月23日)」。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡


【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】
昭和24年美波町(旧日和佐町)生。平成22年徳島県庁退職。平成26年本格的に阿波古代史の勉強を開始、平成27年「邪馬台国阿波説入門講座」(現「阿波古代史講座」)を開講、令和4年2月古代史塾を起こしHPを開設してYouTube動画配信を開始、同年4月『古代史入門』、同6年2月『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』をそれぞれAmazon電子書籍・印刷本出版、現在に至る。

[問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp


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★特別寄稿/ドラゴン:アチョー氏が特別に執筆してくれました!


今からおよそ3000年前。徳島の地に、とてつもない技術力と富を誇る「産業都市」があったらどうです? 鉄器の製造工房とその半分は集落(ムラ)という特徴から、大規模な鉄器の生産拠点が「加茂宮ノ前遺跡」。※画像1。しかも縄文時代後期(約3000年前)! 当時の技術で鉄器生産。近くには日本最古の「若杉山辰砂採掘遺跡」。 「辰砂」は、「水銀朱」という赤色の染料を作る原料。化学変化から黒→赤に戻ることから、不死や変成の神秘的な力を持つと信じられていた。古代中国では「不老不死の薬(仙丹)」を作る「錬丹術」が盛んに行われており、海を越えて探させていたという話もあるぐらいです。 また死者の復活や魔除けを願う埋葬儀礼に用いられていた。(神社の鳥居も赤だよね~)もし今「不老不死の薬」を手に入るなら、あなたならいくら出しますか? それだけ健康や寿命はお金には代えがたい貴重な資源だったって事です。 まさに超大国の権力者も欲しがる納得の商品!「魔除けから不老不死までお気軽に」これで栄えないはずがない!

【★どうした!?加茂宮ノ前遺跡】
年代は「縄文時代後期から古墳時代初期」「鎌倉・室町時代」となっている。これはどうやら、「古墳時代初期(250年頃)~鎌倉時代前(1185年頃)」の出土物は発見されていないとのこと。人がいない!?

【★何があった!?加茂宮ノ前遺跡】
古墳時代初期といえば、250年~300年代序盤には空白の150年に該当!(266年頃~413年頃)。いや、近畿地方に大和政権誕生?(300年~350年頃)貴重な資源と生産拠点を捨てて、他の国に強大な政権(大和政権)が誕生。そして、再び生活の痕跡が現れるのは「鎌倉時代」。250年頃~1185年の空白期間一体どこへ…。

【★そうなのか!?加茂宮ノ前遺跡】 1185年といえば、壇ノ浦の戦いで平氏滅び源頼朝が守護・地頭を設置!この出来事と人々が戻ってきたことと関係があるのか?とすれば、奈良の大和政権は本当に近畿の豪族だけだったのか?

【★古事記に書かれたナゾの「桃」】 古事記の冒頭は、国造りからはじまるため、その性質上場所を特定することが難しいが、しばしば残っている地名との符号が見受けられる。この地域では「百合(ももあい・もあい)」「桃付(ももつき)※画像2」などの地名が残っているが、「桃」の産地ではない様子。この「桃」は「辰砂」を指しているのではないか?この地域一帯から良質の辰砂が取れる場所だったことを考えると。 しかも魏志倭人伝(284年頃)の「その山に丹(朱色を帯びた鉱物)あり」もその人達がくる1000年位前から辰砂採掘してたって話でしょ?しかも大規模。 250年頃遺跡から痕跡なくなる→300年~350年頃大和政権誕生→712年古事記発表(奈良時代)→1185年頃痕跡が見つかる(鎌倉時代)。古事記発表時点では場所の特定が出来たはずだがあえて曖昧にしたのはナゼ? 結局謎は更に深まったが、これが歴史ミステリーの面白いところ。古代阿波恐るべし! ということで歴史を楽しみましょう!では! 
※古代の年代は諸説あり

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DRAGON★ACHOO(ドラゴン★アチョー)
今回のみ登場の正体不明の阿波古代史マニア
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邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡

▲大規模な鉄器の生産拠点「加茂宮ノ前遺跡」(1)

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡

▲「桃付(ももつき)」(2)。


テーマ⑫【完】。

次回のテーマ⑬は・・・

聖徳太子と阿波の関係
記事公開日は2026年1月1日(元旦)。乞うご期待

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑫日本最古のコンビナート 阿南の加茂宮ノ前遺跡



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