歴史・文化
2026/01/01 01:00
あわわ編集部
邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係


小学生の社会の授業で習う、あの「邪馬台国」が阿波徳島にあったかもしれない説が盛り上がっている。魏志倭人伝など各歴史書からも符号する事象が多くあり、邪馬台国阿波説に関する書籍やWEB記事、YouTubeなどで各執筆者が自分の説を論じている。ただ、阿波説は完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。1800年も前の出来事を完全一致させることはほぼ不可能ということで・・・。それならば!それぞれの論者の説を一同に掲載することで、各説の微妙な違いや逆に一致している点などを比較できるようにしようと、まとめ記事を企画しました。この無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者はなんと8名も!毎回のテーマごとにエントリーして執筆してもらうスタイルでまとめていきます(エントリーしないテーマのときもあります)。それぞれが論じる内容を読み比べ、納得する説をお好みでチョイスしていってください。なお、当企画は阿波の古代史を通して徳島の魅力を再発見するというのがミッションなので、邪馬台国以外のテーマも登場予定です。

※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、
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邪馬台国は阿波だった!?テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係


通説
聖徳太子(しょうとくたいし) 『ウィキペディア(Wikipedia)』より
古墳時代後期〜飛鳥時代の皇族・政治家。用明天皇の第二皇子で、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。本名は厩戸王、厩戸皇子、豊聡耳皇子ともいわれるが明らかでない 。
叔母の推古天皇の下、摂政として蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど中国大陸を当時統治していた隋から進んだ文化や制度をとりいれて、冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った。このほか仏教を厚く信仰して興隆に努め、後世には聖徳太子自体が日本の仏教で尊崇の対象となった(太子信仰)。

本名については同時代史料には残っておらず、和銅5年(712年)成立の『古事記』では「上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)」とされている。また養老4年(720年)成立の『日本書紀』推古天皇紀では「厩戸豊聡耳皇子命(うまやとのとよとみみのみこのみこと)」とされている。用明天皇紀では「豊耳聡聖徳」や「豊聡耳法大王」という表記も見られる。「聖徳太子」の語は『懐風藻』の序に見えるのが初出であり、「厩戸王」という名は歴史学者の小倉豊文が1963年の論文で「生前の名であると思うが論証は省略する」として仮の名としてこの名称を用いたが、以降も論証することはなく、田村圓澄が1964年発刊の中公新書『聖徳太子―斑鳩宮の争い』で注釈なしに本名として扱ったことで広まった。『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』が引く「元興寺露盤銘」には「有麻移刀」、「元興寺縁起」には「馬屋門、馬屋戸」と記載されており、前之園亮一は読みが「ウマヤト」であったことは事実であろうとしている。

『日本書紀』推古天皇元年四月条には厩戸前にて出生したという記述があり、『上宮聖徳法王帝説』では厩戸を出たところで生まれたと記述されている。厩戸の名はこれに基づくものとしばしば考えられている。古市晃は舒明天皇期の王宮であった厩坂宮が由来であるとし、渡里恒信は養育を行った額田部湯坐連が馬に深い関係を持っていたことに由来するとしている[9]。また井上薫は厩戸という名の氏族に養育されたのではないかとしているが、同名の氏族が存在したという記録はない。 また「上宮(かみつみや)」を冠した呼称も見られる。『日本書紀』皇極天皇紀では太子の一族が居住していた斑鳩宮を指して「上宮」と呼称しているほか、子の山背大兄王を「上宮王」、娘を「上宮大娘姫王」とも呼称している。顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている。『日本書紀』では、恵慈が「上宮豊聡耳皇子」の名を使った記述があり、「上宮太子」という記述もある。

 聖徳太子は何をした人?
 聖徳太子の活躍した時代は飛鳥時代です。 聖徳太子は用明天皇(ようめいてんのう)の皇子として生まれ、推古天皇(すいこてんのう)のもとで摂政となります。 聖徳太子は推古朝の摂政として、権力者である蘇我馬子(そがのうまこ)とともに、冠位十二階の制や十七条の憲法、遣隋使の派遣、仏教の興隆など、様々な開明的な政策を行いました。聖徳太子は仏教を日本に広めた聖人として、信仰の対象にもなっていることから、様々な伝説や逸話も残されています。

聖徳太子のプロフィール
名前 聖徳太子(しょうとくたいし) 別名 厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ)、豊聡耳(とよさとみみ) 出身地 大和国 
生年月日:574年 死亡年月日:622年 享年:49歳
家族 用明天皇(父)、穴穂部間人皇女(母)、推古天皇(叔母)、蘇我馬子(大叔父)、山背大兄王(子)
聖徳太子のかんたん年表
574年 生誕
584年 物部守屋との戦いに参戦
593年 推古天皇の摂政になる
593年 四天王寺を建立
594年 仏教興隆の詔
601年 斑鳩宮を造営
603年 冠位十二階の制
604年 十七条の憲法
622年 斑鳩宮にて死去

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係

▲聖徳太子。




恋塚建生氏の説/聖徳太子と阿波の関係 聖徳太子は阿波の何処に居たか?


二十年前に、このテーマについての文章を書いたとしたら、間違いなく奈良県の明日香、法隆寺付近に聖徳太子は住んでいて・・・と書いたであろう。しかし、現在において私達は、古事記や古墳等の研究を積み重ねてきて導き出した結果、間違いなく聖徳太子は阿波に居たと断言できるまでに至った。では、聖徳太子は阿波の何処の居たか?というと、それは日本書紀における『倭京』であろう。倭京とは一般的に想像できる、平安京や平城京にある、碁盤の目のような条坊制をもつ都ではなく、現在の阿波の海岸渕、鳴門市~阿南市に点々とあった村々全体をさしたと思われる。また具体的に倭京の何処に住んでいたかと言うと、飛鳥の地である小松島大林周辺で間違いないと思う。

その理由や証明は、文字数の制限でまたの機会としたいが、誰しも疑問に思うことがひとつある、それは聖徳太子の御陵である。大阪にある聖徳太子の墓はどう説明するのか?である。これについては、何年か前にNHKで詳しく放映もされたが、大阪府太子町にある叡福寺北古墳の棺は、移されてきたことが判明されている。すなわち、阿波にあった古墳の棺を叡福寺に移したのである。ではそもそもの御陵はどこにあったのか?それは、阿波に残る伝承などから眉山、もしくは阿波における王家の谷、気野辺山周辺にあったことは、間違いないと思われる・・・・・。

ついに、高市早苗総理大臣が誕生しました。現代の卑弥呼や天照大神となることを期待しております。先日の所信表明では、聖徳太子が定めた憲法十七条の最後の第十七条を引用されていました。
「事独り断(さだ)む可からず。必ず衆(もろとも)と与に宜しく論(あげつら)ふ可し」。
独断で決めてはいけません。必ず仲間の意見を汲んで大事を進めなさいという意味です。 高市早苗総理の内閣が長期に続くように、みんなで応援しましょう。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係


【執筆/恋塚建生(こいづかたけう)】
阿波の古代史、ひいては日本の古代史は、神社や考古学だけでは説明が付きません。私達は数年前に「邪馬壹国」は数学とITで、「古事記」は漢字の読み解きとITを使って、阿波・徳島が「邪馬壹国」であり「古事記の舞台」であることを説明できるようになりました。理系の考え方は全てエビデンスに基づくロジカルシンキングであり、場当たり的な我田引水の説明とは全く異なります。小学生にも分かる丁寧な説明を心掛けています。

[問い合わせ先]ogenkisama0@gmail.com


恋塚建生氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶魏志倭人伝を最新技術で読み解いた!(YouTube)






ANYA氏の説/聖徳太子は阿讃の人


阿波国一宮、大麻比古神社が鎮座する大麻山を北に抜けると、東かがわ市に【馬宿】という変わった地名の場所が有ります。地名の由来は、源義経が屋島の戦いへ向かう途中、この地に立ち寄り、馬を休ませたことが始まりとされていますが、実はもう一つ由来が残されています。それは聖徳太子はこの地を流れるで馬宿川近くで生まれ、のちに阿波で執政を揮ったという話です。

聖徳太子という名前は、没後100年以上経った奈良時代から呼ばれるようになりますが、本名は厩戸(馬宿)王と呼ばれています。阿波に、法谷寺という寺院が有り、この寺は天皇家の十六菊花紋を冠しており、救世山峰薬師縁起という由緒書きが残っています。この縁起の最初に 「小治田宮の御代、聖徳太子、眉山の対岸、気延庄上宮(現国府町)にて詔りし」と書かれています。小治田宮の御代とは推古天皇の時代という意味になり、この頃、聖徳太子は別名、上宮太子とも呼ばれていました。

もしも、法谷寺縁起に書かれてある事が正しいのであれば、622年に亡くなったとされる聖徳太子が居住していた上宮が、徳島市国府町に有ったということになります。また一説によれば、聖徳太子の墓所は、この法谷寺奥の院のタタリ谷常厳寺に有るとも言われています。しかし、畿内に残る聖徳太子ゆかりの法隆寺や四天王寺の建立を考えれば、聖徳太子が四国だけに居たとは考えにくく、私は、藤原京完成の西暦700年頃までの日本の中心(首都)は、阿波と畿内の2拠点だったと考えています。聖徳太子も、阿波と畿内の両方に居を構え、行ったり来たりの生活だったのではないでしょうか。

播磨国、現在の兵庫県揖保郡に斑鳩寺という聖徳太子ゆかりのお寺が有ります。606年、聖徳太子は推古天皇のために大乗仏教の教えを講義し、推古天皇は大いに喜ばれ、播磨国に水田百町を与えたのがこの斑鳩寺のある斑鳩荘の始まりとされています。しかし不思議なのは、推古天皇が、いくら大いに喜ばれたとは言え、この頃の畿内には良田の水田適地はいくらでも有るのに、なぜ奈良の飛鳥から120キロも離れた遠方の播磨国の水田を聖徳太子に与えたのでしょうか? これももし、推古天皇や聖徳太子が阿波にも居を構えていたのであれば、水田適地の少ない阿波から、瀬戸内を渡ってすぐの播磨国の水田好適地を与えたのであれば理解もできます。

 *①/YouTube ANYAチャンネル107参照

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係


【執筆/ANYA(アンヤ)】
人気の大阪在住の古代史YouTuber。書籍「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 阿波(徳島)から日本が始まった。日本の起源も邪馬台国も四国にあった。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 歴史から消されてきた阿波の古代史が明らかになる。ヤマト政権から天皇家の起源などに関して独自の見解を述べる。 

[問い合わせ先]anyautb@gmail.com


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▶▶ANYAチャンネル(YouTube)






コラク氏の説/通説にはない阿讃の地名にみる飛鳥の痕跡


厩戸王(聖徳太子)の系譜を眺めると、古代飛鳥と呼ばれた地がどこだったのか朧げに見えてくる。 眉山山麓にある救世山法谷寺(ほうこくじ)ご縁起には「古え小治田宮(推古)天皇の御宇、聖徳太子当山の対岸気延庄、上宮にて詔りし、当域南北に枕し、東に向いて開く正に浄瑠璃境の域なり、前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を祈願せん。と秦河勝に命じ、以乃山馬峰に医王善逝薬師如来を作らしめ、救世山峯薬師を開山す。」と記す。

要点は「聖徳太子当山の対岸気延庄、上宮にて詔りし」の部分、文面から寺の対岸の気延庄(国府町)にあった「上宮」で詔勅した事になる。 厩戸王は上宮太子の異名があり、上宮(かみつみや)は、『日本書紀』皇極天皇紀では太子一族が居住した斑鳩宮を指していうが、上宮の語は古くは中国の『宋書』に見え、皇帝や皇太子の宮居を表す言葉として用いられる。

また上宮の読みは文脈により、かみのみや、うえのみや、じょうぐう等様々だが、件の国府町には府中(こう)と名付く地に国璽の印と国庫の鍵を守護した由緒を持つ大御和神社がご鎮座される。 上月(こうづき)の姓にもある様に“上”は“こう”とも読む事から、当地が真の上宮であったと推測ができるのだ。

同様に、推古天皇即位後、小墾田宮に遷都する前の宮室とした豊浦宮も小松島市豊浦であると考えられ、また父欽明天皇の宮居の磯城島金刺宮も約めて逆読すると小松島市金磯、更に推古の後に天皇となる舒明天皇宮居の田中宮も逆読で小松島市中田(ちゅうでん)と当地周辺に集中する。また厩戸王の兄弟も当麻皇子(鳴門市大麻)、久米王(名西郡石井)、殖栗皇子(阿波国殖栗郷は一宮町辺)と何れも府中を囲む様に位置している。

逆に推古の異母兄であり後に誅殺された崇峻天皇宮居の倉梯(くらはし)柴垣宮も、逆読すれば箸蔵寺(三好市池田)であると推測ができる。因みに“柴垣”は吉野川北岸に横たわる阿讃山脈の事を指す。 大臣の蘇我馬子が政権を振るう事に不満を持った背景には、宮居を中心地から遠ざけられたとすれば想像ができよう。 同様に異母兄の敏達天皇の子の難波皇子(讃岐国難破)、その子の栗隈王(讃岐国栗隈)、孫の美努王(讃岐国三野)もそれぞれ地名を冠する事から、この時代は東四国を中心とした政治的基盤があったと考えられる。

したがって飛鳥の痕跡は東四国、取分け厩戸王が活躍したのは小松島市~徳島市が舞台の中心地であったと推定する。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係


【執筆/コラク】
日本の特に徳島県(阿波)の古代史を中心に研究をしております。古代の阿波の人たちが日本の国家形成にあたりどのような形で関わって来たのか。また、魏志倭人伝や古事記等の歴史書や古墳・遺構遺物、寺社のご由緒に地域の昔話等々...様々な角度観点から独自の解釈をもって古代を考察しております。

[問い合わせ先]なし


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ヤマモトタケルノミコト氏の説/聖徳太子は阿波にいた ― 阿波から始まる十七条憲法


聖徳太子といえば「お札になった日本の偉人」「十七条憲法」「冠位十二階」など、古代日本の偉人の中の偉人として知られていますが、実在しなかった説等も取り上げられる謎に包まれた人物です。実際はどのような人物だったのでしょうか。574~622年(享年48歳)別名、厩戸皇子 推古天皇の摂政として天皇中心の国づくりを目指す。603年(29歳)冠位十二階を制定。604年(30歳)十七条の憲法の制定。607年(33歳)小野妹子らを遣隋使で派遣。620年(46歳)「国記」「天皇記」を編纂。超人伝説「一度に10人の話を聞けた」【隋煬帝に書簡を送る/日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す】「予知能力があった」。

この大偉人が阿波(徳島)にいたという話が注目されています。「救世山峯薬師法谷寺」用明・崇峻天皇、そして聖徳太子の弔い寺と言われ、縁起には、古 小治田宮(おはりだのみや)推古天皇のとき、聖徳太子が対岸にある気延庄で「当域南北に枕をし、東に向いて開く正に浄瑠璃境の域なり。前尾の峰を救世山と称し、邦国の守護を祈願せん」と、秦河勝に命じ、「以乃山馬峰に医王善逝薬師如来を作らしめ、救世山峯薬師を開山」と書かれています。

※現在国宝として法隆寺に祀られている「救世観音」と「百済仏」は岡倉天心やフェノロサにより法隆寺の夢殿で布に巻かれた状態で発見されましたが、阿波では凄い伝承があります。「峯薬師」は眉山(以乃山)にあります。「救世観音像」は「救世山峯薬師(法谷寺)」の山号から採られた観音像。峯薬師に伝わる寺宝の二体は1848~1855に宝前で永代供養を行った時の石塔が寺内に残っており、それまでこの二体の仏像が峯薬師にあったのは確実で、明治期に仏像や石塔の所在が不明に。明治期に峯薬師を管理した僧「阿闍梨堅雄」。前は奈良の僧で奈良の寺の復興を願っていたそうです。伝承では常厳寺(峯薬師の奥ノ院)は聖徳太子の廟と伝えられており、堅雄が在職中に寺宝が表向きは紛失として売り渡したのではと。現在法隆寺にある国宝「救世観音」と「百済観音」は元々「峯薬師」の寺宝であると。法隆寺の元社はこの「救世山峯薬師、現在の法谷寺」ではと阿波では言われています。また1本の木から作られた3つの仏像が、大和国(大倭)の法隆寺、三河国の鳳来寺(法来寺)、阿波(倭)の法谷寺に祀っており昔から繋がりは深いようです(法谷寺の元住職談)法隆寺には周囲に「峯」はなく山号もなく法隆寺駅の住所は斑鳩町阿波ですね。

これほど著名でありながら太子の実像ははっきりしておらず、本願寺(徳島市南島田)所蔵重要文化財:紙本墨書聖徳太子伝暦を手掛かりに新たな発見も期待したいですね。「伊予国風土記逸文」には聖徳太子が道後温泉に来ていたと。兄弟の「来目皇子(くめのみこ)」と「殖栗皇子(えぐりのみこ)」がおり、久米氏の本拠地は石井町で、川を渡って「殖栗郷(えぐりごう)」がありますね。

予言者とも言われ、百年後の『日本書紀』に「未然を知る」と記述され、『聖徳太子日本国未来記』は楠木正成が読んだとされ、四天王寺秘蔵の金軸を見ると世界が滅びるとのことです(笑) 余談ですが、最高に面白いのが、聖徳太子の『未来記』とモーツァルトのオペラ『魔笛』が「酷似」している件ですね。主人公タミーノ(日本人で聖徳太子?)謎が深まるばかりです!多分、聖徳太子はイ〇ミ〇ティであり、十か国語を話すハーフかも。(穴穂部間人皇女:古代ペルシャ系の母親とも) こうした伝説を合わせてみると、聖徳太子と秦河勝が阿波(日本)を世界の最先端文化へ導き、それを引き継いだ空海が等々。これが阿波という土地の歴史の長さと深さを感じてもらえるきっかけになれば嬉しいですね。言い過ぎた気もしますが(笑)。信じるか信じないかはあなた次第です。

追伸:本当は蘇我馬子やタリシヒコも一緒に検証したいですね。文字数超過でまた次回。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係

▲「救世観音菩薩像・百済観音像」。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係


【執筆/ヤマモトタケルノミコト】
阿波古代の素晴らしさを広く伝えるために日々走り回っている阿波古代伝道師。とくしまクチコミ大使!(徳島商工会議所)。邪馬台国は阿波だった!ラジオMC(エフエムびざん)。アワテラスラボ 理事長。阿波ヤマト財団事務局長。徳島県 観光審議員。徳島YEG:卑弥呼フェス開催。映画「少女H」撮影上映。徳島JC:映画「佳歩」撮影上映。口ずさめとくしまの歌!開催。

[問い合わせ先]heartfull80@gmail.com


ヤマモトタケルノミコト氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶邪馬台国は阿波だった!(YouTube)
▶▶アワテラス歴史研究所アワラボ(Facebook)
▶▶一般財団法人阿波ヤマト財団(公式HP)






島勝伸一氏の説/聖徳太子と阿波ヤマト朝廷との関係


聖徳太子誕生、活躍の舞台背景
527年筑紫国造、磐井の反乱
562年任那日本府新羅に滅ぼされる。
574年(㉚敏達天皇3年)聖徳太子(厩戸皇子)誕生。上宮聖徳 皇子という。上宮は国府町気延山にある 父31代「用明天皇」母「穴穂部間人皇女」(蘇我一族)
・弟「来目(くめ)皇子」神武天皇二度目の饒速日 征伐は名西郡石井町の久米一族の活躍で勝利し た。
・弟「殖栗皇子」の阿波国名東郡殖栗郷から名付 けたものと思われる。殖栗郷は気延山の東にあ り西側に石井町がある。
596年(推古4年)太子、伊予温泉に行く。

聖徳太子が建立した救世山峯薬師が阿波にある(同じように徳島県吉野川北岸阿波市にある大野寺は㊳代天智天皇が663年勅願し創建した寺院でもある)。救世山法谷寺縁起に「聖徳太子は推古9年(601年)ころ気延山上宮で詔し、気延山は南北に枕し東に向いて開くまさに浄瑠璃境の域なり。前方にある以乃山の前尾の峰を救世山と称し邦國の守護を祈願する。と秦河勝に命じ以乃山馬峰に醫王善逝薬師如来を作らせ、救世山峯薬師を開山した」とあります。

聖徳太子はこの頃から、推古天皇の摂政の宮として、国政に積極的に参加、斑鳩に宮を定め、翌推古10年には冠位十二階布告、同年弟、来目皇子筑紫で陣没、小墾田に遷都。 翌11年(604)十七条の憲法制定、推古天皇に勝鬘経(ショウマンギョウ)を講賛。遣隋使を送り、律令制度を学んだ。

620年太子、大臣蘇我馬子とともに「天皇記」「国記」を撰録す。
622年 聖徳太子逝去(推古30年)
626年 蘇我馬子逝去
628年 推古天皇発病。田村皇子と山背皇子を召し、 遺詔、蘇我蝦夷を次期大王に。蝦夷は山背皇 子の後ろ盾、堺部臣摩理勢一族を討つ。
629年 蘇我入鹿の推す田村皇子第34代舒明天皇即位 これよりあとは、私の独り言にしておいてください。

*712年に第43代元明天皇に撰上されたとされる「古事記」 は、682年に天武天皇が稗田阿禮に命じたものが、29年もの間、撰録されず、711年12月に懸命天皇が太安万侶に千六せよと命じ、僅か五カ月で、撰上されたのか。なぜ命じた、第40代天武天皇迄の歴史でなく第33代推古天皇で打ち切られたのか?それも、この古事記の写本が、世に出てきたのが、1282年。その写本が、一般の学者たちに読まれるようになったのが、江戸時代中期。このように、国家挙げての修史事業の古事記が、世に出なかったのは誰の仕業か。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係


【執筆/島勝伸一(しまかつしんいち)】
NPO法人吉野川に生きる会代表理事。阿波ヤマト財団評議員。NPO法人吉野川に生きる会 その事業の一つに、歴史を通じた街おこしに取り組むNPO法人「吉野川に生きる会」として卑弥呼サミット等を開催。郷土史家として島勝理事長や愛媛大学の越智正昭・客員教授らが、出土品や地質学、気候などの観点から阿波説について解説し阿波古代史を広くPRしている。

[問い合わせ先080-3533-5146(島勝)


島勝伸一氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・

▶▶島勝伸一解説 岡元雄作監督作品 ドキュメント映画『ルーツ オブ ザ エンペラー』令和6年6月27日 四国古代史サミット東京(YouTube)





藤井榮氏の説/上宮之厩戸豊聡耳命(かみつみやのうまやとのとよとみみのみこと)


◎(ウズメ:宇受売)おじ様、上宮之厩戸豊聡耳命ってどなたのこと? ●(アレ:阿礼)何を言うとるんじゃ、つい先の御代にわが倭で歴史に残る重要な政(まつりごと)を行われたお方じゃろうが! ◎(ウズメ)ウ~ン、長いお名前よねえ!? “厩戸(うまやど)”ってどこかで聞いたことがあるような‥ ●(アレ)ほれ、“豊聡耳(とよとみみ)”じゃよ。一度に多くの人の話を正確に聞き分けられたという云い伝えを知っとるじゃろう。 ◎(ウズメ)分かったわ!厩戸皇子(うまやどのみこ)様ね! ●(アレ)やっと分かったか、ふることぶみ(古事記)にキチンと書かれておるじゃろう。弟橘豊日命(おとたちばなのとよひのみこと)様のくだりにその皇子として記されておる。 ◎(ウズメ)ご先祖様の出てくる上つ巻(うはつまき)ばかり読んでたもの。第31代用明天皇様の皇子様よね。 ●(アレ)この際、下つ巻(しもつまき)まで読み通しておくことじゃな。天皇家の歴史じゃでな。 

◎(ウズメ)は~い!ところで厩戸皇子様は後世“聖徳太子”って呼ばれてるのよねえ。 ●(アレ)そうじゃな、残された大きな業績を考えればそのように呼ばれるのも頷けるのう。 ◎(ウズメ)お話戻しますけど、なぜ“厩戸”の皇子なのかしら? ●(アレ)そりゃあ、母君の穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)様が巡行中、阿戸(あと)の港(現、香川県引田町)に寄り給いし時、ご当地厩戸川の川口でお産みになったと云い伝えられておるそうじゃ。この厩戸川流域一帯の地方を「引田の厩戸」と言うそうじゃが、ここで生まれし御子ゆえに“厩戸皇子”様なんじゃな。ここは後世までず~っと「馬宿(うまやど)」の地名が残っているそうじゃ。 ◎(ウズメ)仏教に帰依され広くわが倭にその教えを広められたのよね。 ●(アレ)そうじゃよ。母君が仏教を深く信奉する蘇我稲目(そがのいなめ)の孫だし、蘇我馬子(そがのうまこ)の姪に当たるからのう。それに厩戸皇子様ご自身も馬子の娘の刀自古郎女(とじこのいらつめ)を妻にされておるからのう。仏教の申し子と言っても言い過ぎではなかろうて。

◆日本仏教は、西暦538年百済の聖明王が第29代欽明天皇に仏像や経典を献上したのが始まり、あるいは552年とも言われており、日本書紀欽明天皇13年(552年)に『冬10月に、百済の聖明王、西部姫氏達率怒唎斯致契等(せいほうきしだちそちぬりしちけいら)を遺(まだ)して、釈迦仏の金銅像一軀・幡蓋若干・経論若干巻を献る。』とみえます。 ◆しかし、阿波ではこれよりずっと早く仏教が伝来し布教活動が行われていました。 ◆板野郡上板町神宅の大山(標高691m)は、古事記上つ巻で伊邪那岐・伊邪那美の生んだ大山津見神の本拠地で、阿波の北岸瀬戸内海岸を眼下にする阿讃山脈全域を支配、瀬戸内を航行する海人族さえ支配する大王、現在頂上近くの「黒岩大権現」で波切不動尊に変身して祀られていますが、すぐ下の「大山(おおやま)寺」(大山津見神を奉祀した「大山住大明神」※1跡)がわが国文献に仏教の話が出る豊国(とよくに)法師以前に西範僧都(さいはんそうず:恐らくインド系外人)が開山したお寺で古来わが国仏法の発祥地といわれています。 

◆この西範僧都が亡くなったのが西暦538年の12年も前の526年だということは「大山寺」の国指定重要文化財の“経筒”と石碑によって明らかで、経筒刻字『大治元年歳次丙午十月十二日甲辰日閻浮提日本国阿州於大山寺如法経書写供養畢願頌僧西範為結縁法界六道三有受者也』云々、お寺上方に鎮座「黒岩大権現」傍らの追善供養記念碑『西範僧都六百年忌追福也大治元年才次丙午十月十二日』で現実に供養が行われたことを裏付けています。 ◆この「大治元年才次丙午」とは第75代崇徳天皇4年(1126年)に当たり、この年が六百年忌ですから西範僧都が亡くなったのは西暦526年ということになります。 ◆亡くなったのが526年ですから布教活動はその何十年も前から行われていたということです。

◆古寺にあっては“一山(いちざん)を開く”という仏教思想から寺名より山号の方がより重要ですが、「大山寺」の山号は何と“仏王山(ぶつおうざん)”。「救世山大乗院峯薬師(ぐぜさんだいじょういんみねやくし)」(徳島市南庄町)、「得道山灌頂院大野寺(とくどうさんかんちょういんおおのでら)※2」(阿波市市場町山野上)など阿波の古寺の山号はすべて邦国(ほうこく)一山を誇り、寺紋には十六辯(べん)の菊が用いられています。

◆「峯薬師」は、寺伝によれば開基は仏教伝来直後の西暦587年7月聖徳太子が父用明天皇を弔うために建立したとあり、阿波が倭であったことを示す寺の一つです。 ◆昭和62年7月には開山1,400年祭を挙行していますが、法隆寺の創建は607年ではなかったでしょうか。 ◆「峯薬師」の東200mの眉山北側山麓には聖徳太子の葬場とされる「常厳寺」跡があります。 ◆いかがでしょうか。古代阿波海人族の開拓地奈良などでは決して見ることの出来ない阿波の歴史の奥深さと広がりです。

※1 諸国大山祇神社は、ここで祀られていた「大山住大明神」の分かれです。
※2 天智天皇2年(663年)天皇勅願による古刹で壬申の乱で大海人皇子が得度と戦勝祈願をしたお寺です。

【参照リンク】
小著『古代史入門』207~213頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ20(79~81頁)、(Amazon電子書籍・印刷本)

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係

▲『「救世山大乗院峯薬師」(徳島市南庄町)』。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係


【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】
昭和24年美波町(旧日和佐町)生。平成22年徳島県庁退職。平成26年本格的に阿波古代史の勉強を開始、平成27年「邪馬台国阿波説入門講座」(現「阿波古代史講座」)を開講、令和4年2月古代史塾を起こしHPを開設してYouTube動画配信を開始、同年4月『古代史入門』、同6年2月『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』をそれぞれAmazon電子書籍・印刷本出版、現在に至る。

[問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp


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オキタリュウイチ氏の説/聖徳太子と阿波の関係


「はぁ?聖徳太子って言ったら、奈良の人っしょ?教科書でそう習ったし。」ちょっと待って!教科書が間違えてたら?
◾️隠された太子の墓と、日本最古の寺。
まずビックリなのが、聖徳太子のお墓。多くの人が「奈良で亡くなった」と思ってるが、実は徳島市南蔵本町の常厳寺(じょうごんじ)跡に聖徳太子の墓がある。【写真参照】さらにすごいのが、徳島県上板町にある大山寺(おおやまでら)。ここがなんと、日本最古の寺院だったんだ。公式の仏教伝来(538年)より12年も早い526年に、インド人らしきお坊さん「西範」がこの寺で亡くなったという記録が、国の重要文化財の経筒に残っているんだ。

◾️法隆寺のルーツは徳島?
亡くなった父・用明天皇を弔うために聖徳太子が建てたと言われるお寺が、徳島にあった。それが徳島市庄町にある峯薬師(みねやくし)。この寺の創建は587年。なんと、有名な法隆寺(607年創建)より20年も前!つまり、この峯薬師は「法隆寺の元寺と言っても過言ではない」というほど古い歴史を持っていたんだ!

◾️消えた秘仏と明治時代の謎。
そして、この峯薬師には、古より伝わる秘仏があった。それが「救世観音像(ぐぜかんのん)」と「峯薬師尊像」。ところが、明治時代にこの2体の仏像が忽然と消えてしまう。「どこへ行ったのか」という話になっていたら、なんと明治17年の夏に奈良の法隆寺で岡倉天心らの立会いのもと、記録にない仏像が布に巻かれた状態で発見された。それが、まさに徳島から消えた救世観音像と峯薬師像だった。まるでミステリー小説みたいだよね?誰が、なぜ、この秘仏を阿波から奈良の法隆寺に持ち込んだのか?

◾️歴史を操作したかった?
実は明治時代に奈良出身の僧「堅雄」によって、阿波(徳島)の貴重な仏像や寺宝が数多く持ち出されたらしい。さらに、明治政府が長州・薩摩の人間によって牛耳られていたため、政府にとって徳島に日本最古の寺社があるのは都合が悪かった。そこで、歴史の中での徳島の存在を薄くし、重要なお寺や神社、仏像を奈良や京都に移して、「九州や奈良こそが中心だ」という歴史を作りたかったんじゃないか。実際の聖徳太子は、倭(阿波)と、建設中だった大倭(奈良)を、行ったり来たりしてたんだろうね。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係

▲常厳寺(じょうごんじ)跡に聖徳太子の墓。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係


【執筆/オキタリュウイチ】
オキタリュウイチ ディープ・ブランディング株式会社代表  元真言宗・僧侶 徳島県生まれ。早稲田大学中退。行動経済学に基づく経済心理学を独自の手法でマーケティングに応用し、数々の老舗企業再生等を行う。京都の老舗米屋を2400万円から20億円の売上にするなど、驚異的な成果を生み出す傍ら、同時に社会活動家として、自殺者撲滅や日本財団と共催し障害者の起業支援を行うなど、社会的課題の解決に取り組む。近年は、社団法人「日本神社再生機構」を立ち上げ、滅びゆく日本の神社の再生に従事する。 

[問い合わせ先]office@deepbranding.jp


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テーマ⑬【完】。

次回のテーマ⑭は・・・

日本神話に登場するヤマモトタケルノミコトと阿波の関係
記事公開日は2026年1月15日(木)。乞うご期待


邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑬聖徳太子と阿波の関係




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