歴史・文化
2026/01/15 01:00
あわわ編集部
邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマモトタケルノミコトと阿波の関係


小学生の社会の授業で習う、あの「邪馬台国」が阿波徳島にあったかもしれない説が盛り上がっている。魏志倭人伝など各歴史書からも符号する事象が多くあり、邪馬台国阿波説に関する書籍やWEB記事、YouTubeなどで各執筆者が自分の説を論じている。ただ、阿波説は完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。1800年も前の出来事を完全一致させることはほぼ不可能ということで・・・。それならば!それぞれの論者の説を一同に掲載することで、各説の微妙な違いや逆に一致している点などを比較できるようにしようと、まとめ記事を企画しました。この無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者はなんと8名も!毎回のテーマごとにエントリーして執筆してもらうスタイルでまとめていきます(エントリーしないテーマのときもあります)。それぞれが論じる内容を読み比べ、納得する説をお好みでチョイスしていってください。なお、当企画は阿波の古代史を通して徳島の魅力を再発見するというのがミッションなので、邪馬台国以外のテーマも登場予定です。

※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、
本記事の内容は著作権法により保護されています。無断での転載、複製、改変、及び二次利用は固く禁じております。記事自体のシェアは大歓迎です。

今回から新しく執筆者が登場しました。山内雄二さんです。他の執筆者との違いをチェックしてください。


邪馬台国は阿波だった!?テーマ⑭日本神話に登場するヤマモトタケルノミコトと阿波の関係


通説
ヤマトタケルノミコト
 『ウィキペディア(Wikipedia)』より (景行天皇12年 - 景行天皇41年)は、記紀などに伝わる古代日本の皇族(王族)

 『日本書紀』では主に「日本武尊(やまとたけるのみこと)」、『古事記』では主に「倭建命(やまとたけるのみこと)」と表記される。 第12代景行天皇の皇子で、第14代仲哀天皇の父にあたる。熊襲征討・東国征討を行ったとされる日本古代史上の伝説的英雄である。

名称 『日本書紀』・『古事記』・『先代旧事本紀』とも、本の名は「ヲウス(オウス)」、亦の名は「ヤマトヲグナ(ヤマトオグナ)」で、のちに「ヤマトタケル」を称したとする。

それぞれ表記は次の通り。
『日本書紀』・『先代旧事本紀』
本の名:小碓尊(おうすのみこと)、小碓王(おうすのみこ)
亦の名:日本童男(やまとおぐな)
のちの名:日本武尊(やまとたけるのみこと)、日本武皇子(やまとたけるのみこ)

『古事記』
本の名:小碓命(おうすのみこと)
亦の名:倭男具那命(やまとおぐなのみこと)、倭男具那王(やまとおぐなのみこ)
のちの名:倭建命(やまとたけるのみこと)、倭建御子(やまとたけるのみこ)

「ヲウス(小碓)」の名称について『日本書紀』では、双子(大碓命・小碓尊)として生まれた際に、天皇が怪しんで臼(うす)に向かって叫んだことによるとする。「ヲグナ(童男/男具那)」は未婚の男子の意味。「ヤマトタケル」の名称は、川上梟帥(または熊曾建)の征討時に捧げられた(後述)。「尊」の用字は皇位継承者と目される人物に使用されるもので、『日本書紀』での表記は同書上でヤマトタケルがそのように位置づけられたことによる

文献で見えるその他の表記は次の通り。 倭武命:『日本三代実録』 倭武尊:『古語拾遺』 倭建尊:『新撰姓氏録』 日本武命:『尾張国風土記』『古語拾遺』 倭武天皇/倭建天皇:『常陸国風土記』 倭健天皇命:『阿波国風土記』 なお、「武」・「建」の訓については「タケル」ではなく「タケ」とする説がある。その中で、「タケル」は野蛮を表現する語であり、尊号に用いられる言葉ではないと指摘される。「ヤマトダケノミコト」と読まれる場合もある。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係

▲日本武尊と川上梟帥/月岡芳年画。




ANYA氏の説/


(編集部注)
ANYA氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。

 *①/YouTube ANYAチャンネル107参照

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係


【執筆/ANYA(アンヤ)】
人気の大阪在住の古代史YouTuber。書籍「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 阿波(徳島)から日本が始まった。日本の起源も邪馬台国も四国にあった。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 歴史から消されてきた阿波の古代史が明らかになる。ヤマト政権から天皇家の起源などに関して独自の見解を述べる。 

[問い合わせ先]anyautb@gmail.com


ANYA氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶ANYAチャンネル(YouTube)






コラク氏の説/日本武尊が白鳥となって帰って来た まほろばの地


日本武尊は12代景行天皇の子で、「記紀」にみられる全国行脚の征伐譚はあまりにも有名だ。古くは初代神武天皇の東征に始まり、10代崇神天皇が、北陸、東海、西道、丹波の四道に将軍を派遣した説話、そして日本武尊の熊襲・東国討伐と、ヤマト王権によって歴年繰り返された国土平定譚が記録される。

これらは、九州・中国・更には東海・関東・北陸に至るまで、西-北-東と継続的に派兵されていた事を示しており、488年完成の『宋書倭国伝』倭王武上表文、「昔より先祖代々王は自ら甲冑を着て先頭に立ち、山川を越えて休むこともありませんでした。東方の毛人を征すること55国、西方の夷族を服属させること66国、平海を渡って北方95国をも平定しました。」からも分かる。しかしそれらの記録を見返すと、何故か不思議と南海道四国への征伐は一切記録されていないのだ。

丸亀京極家が編纂した『西讃府誌』の讃岐大麻神社の項に「相伝ふ弟橘姫は讃岐人穂積氏忍山宿祢の娘なり」とあり、また『先代旧事本紀』には、「妃ハ穂積氏ノ祖忍山宿祢ノ女弟媛生九男」にて、五男「息長田別ノ命阿波ノ君等ノ祖」六男「五十日彦王ノ命は讃岐ノ君等ノ祖」と記す。
更に大吉備建比売との子に、武殻王(讃岐綾君の祖)と十城別王(伊予別君の祖)も見える。

讃岐白鳥神社のご由緒には、「成務天皇(日本武尊の弟)は神櫛皇子(日本武尊の弟で讃岐国造の祖)を武殻王に従わせて讃岐の国造に封じ、仲哀天皇(日本武尊の子)は神籬を建て…(後略)」との伝承があり、この事から日本武尊の妻やその親、子や弟も阿波・讃岐・伊予にいた事が記録から分かるのだ。

また阿波白鳥神社は、東国征定の帰途に伊勢国で亡くなった日本武尊が白鳥となって昇天し、此地に舞い降りたと謂れており、仲哀天皇が建て、息長田別王が崇拝したと伝う。『阿波国風土記逸文』も、「勝間井の冷水。此より出づ。勝間井と名づくる所以は、昔、倭健天皇命、乃ち、大御櫛笥を忘れたまひしに依りて勝間といふ。粟人は、櫛笥をば勝間と云ふなり。井を穿りき。故、名と為す。」と、日本武尊が櫛笥を阿波に忘れた事に因んだ内容だ。『阿波國式社略考』には、「讃岐国大内郡鶴内ノ荘白鳥明神ハ後ノ世ニ祭リ申セシニヤ」とあり、阿波白鳥神社は両国一社を標す石碑にある様に、両社の元社を指す。

日本武尊の辞世歌の「倭は国の真秀ろば…」も、帰れぬ故郷四国阿波を偲んで詠んだものと思われる。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係


【執筆/コラク】
日本の特に徳島県(阿波)の古代史を中心に研究をしております。古代の阿波の人たちが日本の国家形成にあたりどのような形で関わって来たのか。また、魏志倭人伝や古事記等の歴史書や古墳・遺構遺物、寺社のご由緒に地域の昔話等々...様々な角度観点から独自の解釈をもって古代を考察しております。

[問い合わせ先]なし


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ヤマモトタケルノミコト氏の説/ヤマトタケルノミコトと阿波 ― 古代英雄が歩いた“足跡”


ヤマトタケルノミコトといえば・・・そうです、私ヤマモトタケルノミコトが崇拝している方ですね。
記紀に描かれる日本神話屈指の英雄であり、九州・西国・東国を駆け巡った勇者として知られる。しか~し、いつもの流れですが、その足跡を丹念にたどると、決して通説で語られる大和の英雄ではなく、阿波の倭を起点とした人物と私は信じています(笑)。その理由をこれから順に述べていきます(私、今回執筆頂いている、山内氏に色々とヤマトタケルについて教えて頂いています)。

まず注目すべきは、神社庁によると【白鳥神社】は全国に120社有り、式内社はなく、唯一徳島県石井町の白鳥神社が、国史見在社(こくしけんざいしゃ※)であり、式内社以外での大事な神社。※六国史=奈良・平安時代に勅命によって編纂された六つの歴史書『日本書紀』『続日本紀』『日本後紀』『続日本後紀』『日本文徳天皇実録』『日本三代実録』の総称。また日本三代実録には、861年に従五位下、883年に従五位上を授かった記録もあります。徳島市国府町には、ヤマトタケルが櫛の箱を置き忘れた伝承から名がついた勝間の池や、倒れそうなときに咄嗟に手を出したことから付いた『とっさか』と言う地名、先に書いた国史見在社の白鳥神社(地名も石井町白鳥)、その横にある山ノ神古墳(ヤマトタケルのお墓)と揃いに揃っています。ちなみにバス停は鳥坂北(とっさかきた)→白鳥東と続いています。また、そこから西に、ヤマトタケルが使用したと伝わる草薙剣(くさなぎのつるぎ)別名「天叢雲剣」の式内社天叢雲神社がありますね。

古事記や先代旧事本紀にヤマトタケルの子として登場する長田別王子(息長田別命おきながたわけのみこと)は、阿波君の祖(役職名で阿府志では国司の始まり)と言われ、ヤマトタケルが活躍した時代を含め、子孫が4世紀から8世紀まで阿波国司を務め、その後に那賀郡海部の県主となっています。「おきなが」と言えば、14代仲哀天皇の皇后・神功皇后の諱が息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)で気になるところですね。また阿府志によるとその時代の海部城(あまき)がJR府中駅の北あたりの「国府町府中字尼木」にあったと考えられています。

さらに、ヤマトタケルの妃・弟橘媛(オトタチバナヒメ)ゆかりの地は阿南から南で、彼女を祀る「橘神社」をはじめ複数あります。ヤマトタケルの遠征途上で、海は荒れ狂い、船は木の葉のように翻弄され、「このままでは船が海に沈み全滅してしまう。この海神の怒りを鎮めるためには自分が人柱になるより方法はない」そう考えた弟橘比売は海に入水し、荒れていた海はにわかに鎮まったという。今もその悲劇のヒロインの名残で続いているお祭りが、牟岐の奇祭「姫神祭」と教わりました。海人族の本拠地であった阿波海神族の本拠地、阿南から海陽町まで、そこから紀伊・淡路・房総、海外へと海路で密接につながっており、弟橘媛や息長田の系統は、古代の海上ネットワークを支配した海の一族であり、ヤマトタケルも海人族と関係が深く古代日本の国造りに阿波から大いなる影響を与えたと考えられます。

纏めると、阿波の地名・伝承・神社・海人族のネットワークを考えたときに、ヤマトタケルが西征や東征に乗り出すのに一度も征服されていない四国阿波は本拠地であったという解釈は極めて自然と思います。上記の状況証拠で合わせ技一本になりませんかね(笑)。 阿波は英雄ヤマトタケルの生まれ育った地であり、有名なこの歌の場所と思いますね。

倭は国のまほろば たたなづく青垣山籠れる 倭しうるわし

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係

▲白鳥宮。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係


【執筆/ヤマモトタケルノミコト】
阿波古代の素晴らしさを広く伝えるために日々走り回っている阿波古代伝道師。とくしまクチコミ大使!(徳島商工会議所)。邪馬台国は阿波だった!ラジオMC(エフエムびざん)。アワテラスラボ 理事長。阿波ヤマト財団事務局長。徳島県 観光審議員。徳島YEG:卑弥呼フェス開催。映画「少女H」撮影上映。徳島JC:映画「佳歩」撮影上映。口ずさめとくしまの歌!開催。

[問い合わせ先]heartfull80@gmail.com


ヤマモトタケルノミコト氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶邪馬台国は阿波だった!(YouTube)
▶▶アワテラス歴史研究所アワラボ(Facebook)
▶▶一般財団法人阿波ヤマト財団(公式HP)






山内雄二氏の説/英雄ヤマトタケルと白鳥伝説-阿波に残る記憶


ヤマトタケルノミコトは、日本神話の中でも特に人気のある英雄である。【古事記】では「倭建命」と、【日本書紀】では「日本武尊」と表記されている。興味深いことに二つの書物で父・景行天皇との関係が全く逆に描かれている。【古事記】では、景行天皇は、皇子の武功を評価し二度の遠征を任せるが、その強さを疎んじた。皇子もそれを察して、遠征前に叔母の倭比売に泣きつくほどであった。一方、【日本書紀】では、景行天皇は皇子を溺愛し「汝は身体長大、容姿端正、向うところ敵なし。我が子ながら神である、帝位もお前のものである。」と絶賛している。皇子は、熊襲征討から東征までの12年間父帝を補佐し、父帝の信頼を得ている。このように相反する記述が並ぶと、どちらが真実かと断定することは難しい。私は、歴史あるいは人間関係には二面性があり、時と状況によりどちらも真実であったと考えている。

ヤマトタケルにまつわる有名な逸話が『白鳥伝説』で、記紀の内容はほぼ同じである。東征からの帰途、皇子は伊勢の能褒野(のぼの、現在の三重県亀山市付近)で病に倒れたため東征の報告を奏上すべく副将の吉備武彦を兵団とともに本国へ帰還させたが、やがてその地で崩御したとされる。しかし、能褒野に着いた遺族が棺を開けると、中に遺体はなく衣服だけが残っていた。その後皇子は白鳥となって飛び立ち、宮都・大倭ではなく河内に帰ったとある。神話は虚を纏った実話であると考えれば、人間が白鳥になるわけがない。棺に遺体がなかったということは、本当のところ皇子は亡くなっていなかったのではないかという解釈も可能である。

ここから二つの仮説を立ててみた。一つは【古事記】的観点から、父子関係が険悪であったため、皇子は朝廷から離れて出奔したとも想像できる。棺に衣服を残したのは父帝への当てつけであったかもしれない。朝廷は「皇子が白鳥になって昇天した」と伝えることで、出奔を隠したのであろう。もう一つの仮説は【日本書紀】のように父子関係が良好であった場合、皇子は病から快復し、残された兵とともに都を目指した可能性がある。「阿波説」によると、当時の都は、大倭(奈良)ではなく、倭(阿波)即ち式内・倭大国魂神社の鎮座する吉野川上流域の美馬郡にあったとする。当時、10代崇神天皇の師木水垣宮、11代垂仁天皇の師木玉垣宮(纏向玉城宮)、さらに12代景行天皇の纏向之日代宮と続く宮都は、吉野川上流に位置する現在の旧美馬郡半田町天皇にあったと考えている。皇子は船で紀州沖を廻り、まず最愛の妃・弟橘比売の故郷である橘湾(現・橘神社)で冥福を祈った。その後、那賀川に沿って北上(現・195号線から193号線)して半田町の都を目指したが、途中の延野(のぶの、旧那賀郡相生町)で病が再発し崩御したのではないか。延野の地名は伊勢の能褒野から付けられたものかもしれない。

徳島県にはこれを裏付けるような痕跡が残っている。相生町の国道沿いにある王子神社は祭神を「日本武命」とし、永禄五年(1562年)の棟札に書かれた「由緒書」には「延長四年(926年)四月六日 本国那西郡延野庄石巻の地に宮殿を王子々孫に作らせ給いし」と記されている。同様のことが【改訂 徳島県神社誌】の王子神社の項にも記されている。つまり、926年当時、延野には日本武命の子孫が住んでおり、国からの命令で当地に宮を建造したということである。しかし残念ながら、それ以外に日本武命の伝承は残っていなかった。その後、皇子の亡骸は遺臣達によって半田町の都に運ばれ、景行天皇によって半田川流域の式内・建神社に手厚く祀られたと想われる。当神社の鎮座地は山々と川に挟まれた地形で、徳島県の方言で「河内」と呼ばれ、白鳥伝説の「河内」を想定させる。

白鳥伝説は英雄を神格化するために、後世に創られた物語であろうと思う。しかし、その背後には、実際の歴史や地域の記憶が隠れている可能性がある。ヤマトタケルは、白鳥になったのではなく、阿波の地で静かに生涯を閉じた、史実はこのようなものではなかったのかと考える次第である。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係


【執筆/山内雄二(やまうちゆうじ)】
昭和27年4月、鳴門市に誕生。小学校1年より徳島市南二軒屋町に居住。大学在学中は、山歩き、ジャズ鑑賞、読書が趣味。卒業後、神戸の会社に就職し神戸市垂水区に居住。65歳で職を辞し、徳島に帰還。「うちのかみさん」と国府町で二人暮らし。阿波説の魅力に取りつかれて20年。徳島歴史研究会で年一回、自説の阿波古代史を発表。今年で16回。国府町の「一般社団法人・大御和神社・崇敬会」の事務局を夫婦で運営。

[問い合わせ先]090-1136-7625






島勝伸一氏の説/やまと武尊と阿波国との関係


古事記神話の中でも最も人気が高いヤマトタケル尊は古事記上巻人皇第12代景行天皇の第二子小碓尊として登場する。 この日本武尊(のちの世にこう表記されたのでこれを用いる)。

景行天皇(西暦400年頃)、北九州国東半島で天皇体制に従わない部族討伐のためこの地を平定し日向と名付けた。この後、熊本の熊襲は日本武尊の活躍で征伐し、その帰り、中国地方日本海側、230年頃阿波を追われた須佐之男命がこの地に入り故郷阿波の東海岸「出雲」の名前を付けた。今の島根県地方の出雲建の命も成敗して、阿波の国に帰り、父景行天皇に報告した。

ところが、父景行天皇は、またも東方の蝦夷を討ってこいとの、命令を受ける。日本武尊は悩んだ。父は、我を「死んだらいいと考えているのではないか?」そして、父の妹(伯母)の倭姫に相談に行った。倭姫は、阿波の国麻植郡川島(今の川島城のある吉野川に面した、交通の要所)に住んでいた。倭姫は「強いそなたでなければ東蝦を抑えることはできない。この草薙剣で族を打ち払い、またこのお守りを持っていき、大ピンチの時はこの袋の中のものを使って逃れなさい」と、神剣とお守りを渡した。
妻 弟橘媛(海人族穂積氏の娘)

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係


【執筆/島勝伸一(しまかつしんいち)】
NPO法人吉野川に生きる会代表理事。阿波ヤマト財団評議員。NPO法人吉野川に生きる会 その事業の一つに、歴史を通じた街おこしに取り組むNPO法人「吉野川に生きる会」として卑弥呼サミット等を開催。郷土史家として島勝理事長や愛媛大学の越智正昭・客員教授らが、出土品や地質学、気候などの観点から阿波説について解説し阿波古代史を広くPRしている。

[問い合わせ先080-3533-5146(島勝)


島勝伸一氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・

▶▶島勝伸一解説 岡元雄作監督作品 ドキュメント映画『ルーツ オブ ザ エンペラー』令和6年6月27日 四国古代史サミット東京(YouTube)





藤井榮氏の説/天翔(あまがけ)る白鳥王子


◆ 『倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣(あをかき) 山隠(やまごも)れる 倭し 美(うるは)し』と歌い、異境の地で望郷の念に駆られながら亡くなった魂は大きな白鳥となって遙か西の故郷へ飛んで行く。古代史上最も有名にして一番人気の「倭建(やまとたける)命」、その時代と皇子の実像に迫ります。 ◆小碓(をうす)命(倭建命)は父第12代景行天皇ともども建波邇安王(たけはにやすおう)に連なる県南牛岐(うしき:現、阿南市富岡:この地方で岐比津(きびつ)ともいう)の比売を后に選んでいます。 ◆「岐比(きび)」・「岐比津」とは、徳島県北鳴門から県南にかけての南北海岸線にある地形の形容詞で今でいう軍港、当時の「岐」(ふなと)は海人族の船だまりのある要衝のことです。 ◆古事記文中で「吉備(きび)」・「吉備津(きびつ)」と出てきますが岡山県吉備地方とは全く関係がありません。同地方が吉備と呼ばれるようになったのはこの物語の時代よりもずっと後世のこと。 ◆景行天皇ご自身“大帯日子淤斯呂和気(おほたらしひこおしろわけ)”といい、“大帯(おほたらし)”(“帯(たらし)”は阿波弁で“ふんどし”を意味)が付くことで分かるように生粋の阿波海人族の大王です。 ◆皇后「針間(はりま)の伊那毘能大郎女(いなびのおほいらつめ)」は大碓(おほうす)命・小碓命双子の御子を生みますが、この「針間」は県南海部郡美波町西河内の「はりま」のことです。 

◆国生み神伊邪那岐命が禊ぎ祓いをして三貴人(天照大神(あまてらすおほみかみ)・月読(つくよみ)命・須佐之男命(すさのをのみこと))を生んだ『橘(たちばな)の小戸(おど)の阿波岐原(あわきがはら)』もこの地方、現阿南市で本話主人公小碓命、后の「弟橘比売(おとたちばなひめ)」が生まれたのもこの辺り「橘町」です。 ◆小碓命は西征のため阿南長(なが)川(那賀川)居住地から吉野川上流への途中、阿波市阿波町「伊勢(いせ)」で叔母の巫女「倭比売(やまとひめ)命」と会って策を練り、熊曾建(くまそたける)兄弟を討った時勇猛と称えられ、以後「倭建命」と名乗るようになりましたが、この熊曾建、書紀では川上梟帥(かわかみたける)(建)となっているように吉野川上流の勇猛な男という意味で、美馬市脇町の式内社「建(たける)神社」の鎮座している地域のことです。 ◆引き上げる途中の出雲(吉野川河口“伊豆毛(いづも)”地方)で「伊豆毛建(いづもたける)」を討ち果たします。 ◆景行天皇は九州まで巡幸、「倭建命」も東奔西走、東国遠征の折、戦勝祈願をしたのが東京浅草の「鷲(おおとり)神社」(祭神:天日鷲(あめのひわし)命)で“おとりさま”と呼ばれ11月の例祭は“酉の市(とりのいち)”として広く知られています。 ◆酉の市の始まりは「倭建命」が戦勝祈願をして関東一円を鎮撫した後またお礼参りをした際、社前の松に武具の熊手を立てかけた故事から縁起が良いとされて秋の例祭“酉の市”で熊手が売られるようになったことからだとか。それでご祭神にもなったそうです。

◆もうお分かりでしょう。東京浅草で阿波の神様、阿波忌部の祖先神天日鷲命と阿波の大王倭建命が祀られているのです。「浅草」の語源も「麻草」といわれるほど阿波忌部と関係ある土地柄です。 ◆「鷲神社」発祥の千葉県茂原(もばら)市鷲巣(わしのす)「鷲山寺(しゅうさんじ)」はじめ千葉を中心に多くの「鷲(大鷲)神社」が鎮座しています。 ◆「倭建命」が東国遠征の前に父景行天皇の人使いの荒さを嘆き、叔母「倭比売命」に「天皇は私に死ねと仰せか。」と泣きつくくだりがありますが、倭比売は「伊勢」で神道にたずさわっていたようで、「倭建命」の東方遠征の神祇を行った場所が吉野川対岸(南岸)、吉野川市川島町川島の「川島城」辺りです。 ◆近世に至るまでの重要な要衝で川島城が建てられるまでこの地に鎮座していたのが「東道(とうどう)神社」で、現在は東側斜面に移され小さな神社となっていますがもともとこの地は東道神社の社地でした。

◆倭建命の后、「弟橘比売」が「走水(はしりみづ)」(神奈川県浦賀水道)で海峡支配の神の怒りを静めるため入水(じゅすい)した“海鎮め”の故事にならい、海上安全を祈る海人族の守り神が阿南市橘町大浦に鎮座する「海正八幡宮(かいしょうはちまんぐう)」(境内「橘神社」とも)で「弟橘比売」もこの「橘神社で祀られています。 ◆もう一人の妃「大吉備建比売(おおきびたけひめ)命」は三倉山(みくらやま)山頂に式内社「古烏(こがらす)大明神」として祀られていましたが、現在下の宝田町「古烏神社」(「建比売(たけひめ)神社」)で祀られています。 ◆日の丸の中に真っ黒の烏が一羽飛んでいる変わった神紋をもつ古社で“こがらすさん”の愛称で親しまれていますが、妃は色黒の美人だったそうです。

◆亡くなって大きな白鳥となった「倭建命」の魂が三重の能煩野(のぼの)から西へ西へと飛ぶ古事記の形容は一時仮埋葬されたことを意味しているのではないかと考えられ、後に命(みこと)を白鳥(しろとり)村(現名西郡石井町石井白鳥)の「山の神(やまのかみ)古墳※1」で葬り、「白鳥(しろとり)神社※2」を建立したのが御子の第14第仲哀(ちゅうあい)天皇でした。 ◆“倭建天皇”とまで称される武勇伝説の皇子、生きて再び故国阿波倭の地を踏めなかった命の(冒頭)国思いの歌を口ずさめば思わず涙せずにはいられません。

※1 倭建命の父景行天皇の御陵は、鳴門市大代(おおしろ)の「大代古墳」ではなく、阿南市の「国高山(くにたかやま)古墳」(内原町)を始めとする県南一帯のどこかに求めたいと考えています。
※2 この白鳥宮が、後世高松に「高津宮(たかつのみや)」を敷いた第16代仁徳天皇によって瀬戸内の鎮守として分祀されたのが香川県東かがわ市白鳥の「白鳥神社」です。これを明確にするため、阿波の 白鳥宮には“両国一社”(元宮)と彫り込んだ大きな石碑が建っています。

【参照リンク】
① YouTubeチャンネル古代史塾 「悲劇の倭建命・弟橘比売」(古代史解説第12回)
② 小著『古代史入門』120頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ19(75~78頁)、(Amazon電子書籍・印刷本)


邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係

▲津峯神社境内から橘湾を望む。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係


【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】
昭和24年美波町(旧日和佐町)生。平成22年徳島県庁退職。平成26年本格的に阿波古代史の勉強を開始、平成27年「邪馬台国阿波説入門講座」(現「阿波古代史講座」)を開講、令和4年2月古代史塾を起こしHPを開設してYouTube動画配信を開始、同年4月『古代史入門』、同6年2月『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』をそれぞれAmazon電子書籍・印刷本出版、現在に至る。

[問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp


藤井榮氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶古代史塾(公式HP)
▶▶古代史塾(YouTube)






オキタリュウイチ氏の説/徳島に隠された英雄の出生と終焉― ヤマトタケルと阿波の意外な繋がり


日本でも誰もが知ってる有名なヒーロー、ヤマトタケル(日本武尊)。第12代景行天皇の皇子で、九州の反逆者クマソを退治したり、東国を平定したりと、全国移動しながら戦った伝説の英雄だよね。最後は伊勢の地で亡くなり、白鳥になって飛び去ったという話が有名なんだけど、実はその「本当の終焉の地」が徳島(阿波)にあったんだ。

◾️なぜ徳島に「白鳥神社」があるのか?
ヤマトタケルの御陵は、公式には奈良・三重・大阪の3箇所あるとされている。ところが、実は徳島県石井町白鳥という場所に、白鳥神社はあった。驚くことに、ここはヤマトタケルの息子である仲哀天皇が、父を祀るためにわざわざ建てた神社だという。仲哀天皇がわざわざ建てた神社は、ここにしかない。地元では「ここがヤマトタケルの古墳だった」という伝説もある。残念ながらその古墳は、大昔に誰かが解体してどこかへ持って行ってしまったのだという。またしても、聖徳太子の伝承にも似た歴史改竄話だ。だが、このあたりは古墳群で、神社の石碑には「両国一社」という格式高い文字が刻まれており、太古は栄華を極めていたはずだ。平安時代の記録を見ても、この徳島の白鳥神社は朝廷から毎年御供物が届くほど特別視されていた。883年には「従五位上」というかなり高いランクの位をもらっている。

◾️香川との「本家争い」に決着?
白鳥神社といえば、隣の香川県(東かがわ市、旧阿波)も有名だけど、実は昔、徳島と香川のどっちが元宮なのかという論争があったが、讃岐の白鳥宮は瀬戸内海鎮守の目的として、阿波白鳥宮の真北に分祀された事がわかったようで、あっさり讃岐が引き下がったという経緯がある。

◾️阿波を拠点に全国へ?
「聖徳太子の時代まで、阿波に都があった」という事をふまえると、ヤマトタケルの時代も、日本の中心「倭」は阿波にあったことになる。そう考えると、彼が阿波を拠点にして各地へ遠征に行き、伊勢で亡くなり、最後は遺体は故郷である阿波で埋葬された……という流れも自然に思える。『阿波国風土記』にはヤマトタケルが徳島市内の井戸を命令で掘らせたと阿波國風土記逸文にも記載がある。彼が最後に眠りについた場所は、この阿波の地だったのだ!

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係

▲白鳥宮。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係


【執筆/オキタリュウイチ】
オキタリュウイチ ディープ・ブランディング株式会社代表  元真言宗・僧侶 徳島県生まれ。早稲田大学中退。行動経済学に基づく経済心理学を独自の手法でマーケティングに応用し、数々の老舗企業再生等を行う。京都の老舗米屋を2400万円から20億円の売上にするなど、驚異的な成果を生み出す傍ら、同時に社会活動家として、自殺者撲滅や日本財団と共催し障害者の起業支援を行うなど、社会的課題の解決に取り組む。近年は、社団法人「日本神社再生機構」を立ち上げ、滅びゆく日本の神社の再生に従事する。 

[問い合わせ先]office@deepbranding.jp


オキタリュウイチ氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶公式ホームページ






恋塚建生氏の説/倭建命(ヤマトタケルノミコト)もやっぱり阿波の人


古事記において一番壮大で面白い場面は、倭健の物語だと思う。それは古事記の舞台が はじめて阿波から県外に移るからだ。倭健の物語は大まかに言うと、前半、中間、後半に分かれているが、前半は阿波(小松島・勝浦他)中間は関東方面(千葉・東京他)後半は阿波(徳島市、石井)に帰るが、讃岐も舞台となっている。

また、古墳と古事記の神々の関係や、阿波忌部の全国進出との関係が明らかにできるのも、倭健の物語が記述されている古事記中巻の、興味深く面白いところでもある。 もちろん字数制限があるこの場所に書くことはできないが、倭健の和歌と、今も残る阿波の風景がぴったり合うのも、読んでいて楽しくなる。

『倭健命の和歌』 「倭(やまと)は国の まほろば たたなづく 青垣 山隠れる 倭しうるわし」

『訳』 倭(阿波・徳島)は、国の中でもっともすばらしい場所だ 青々とした垣根のように重なりあった山々が取り囲む、うるわしき我が故郷よ

将来いつになるかはわからないが、この面白いヤマトタケルノミコトの物語を、紙芝居か絵本か動画で表現できるようにしたいと思っている。さていつごろになるだろうか?

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑭日本神話に登場するヤマトタケルノミコトと阿波の関係


【執筆/恋塚建生(こいづかたけう)】
阿波の古代史、ひいては日本の古代史は、神社や考古学だけでは説明が付きません。私達は数年前に「邪馬壹国」は数学とITで、「古事記」は漢字の読み解きとITを使って、阿波・徳島が「邪馬壹国」であり「古事記の舞台」であることを説明できるようになりました。理系の考え方は全てエビデンスに基づくロジカルシンキングであり、場当たり的な我田引水の説明とは全く異なります。小学生にも分かる丁寧な説明を心掛けています。

[問い合わせ先]ogenkisama0@gmail.com


恋塚建生氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶魏志倭人伝を最新技術で読み解いた!(YouTube)




テーマ⑭【完】。

次回のテーマ⑮は・・・

初代神武天皇と阿波の関係
記事公開日は2026年2月1日(日)。乞うご期待


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