2026/02/01 01:00
あわわ編集部
邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ⑮初代神武天皇と阿波の関係
小学生の社会の授業で習う、あの「邪馬台国」が阿波徳島にあったかもしれない説が盛り上がっている。魏志倭人伝など各歴史書からも符号する事象が多くあり、邪馬台国阿波説に関する書籍やWEB記事、YouTubeなどで各執筆者が自分の説を論じている。ただ、阿波説は完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。1800年も前の出来事を完全一致させることはほぼ不可能ということで・・・。それならば!それぞれの論者の説を一同に掲載することで、各説の微妙な違いや逆に一致している点などを比較できるようにしようと、まとめ記事を企画しました。この無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者はなんと8名も!毎回のテーマごとにエントリーして執筆してもらうスタイルでまとめていきます(エントリーしないテーマのときもあります)。それぞれが論じる内容を読み比べ、納得する説をお好みでチョイスしていってください。なお、当企画は阿波の古代史を通して徳島の魅力を再発見するというのがミッションなので、邪馬台国以外のテーマも登場予定です。
※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、本記事の内容は著作権法により保護されています。無断での転載、複製、改変、及び二次利用は固く禁じております。記事自体のシェアは大歓迎です。
邪馬台国は阿波だった!?テーマ⑮初代神武天皇と阿波の関係
通説
神武天皇(じんむてんのう、旧字体: 神󠄀武天皇)
『ウィキペディア(Wikipedia)』より 日本の初代天皇とされる人物。一般的には、日本神話(『古事記』・『日本書紀』(記紀))の伝説上の人物とされることが多い。諱は彦火火出見(ひこほほでみ)、あるいは狭野(さの、さぬ) 『日本書紀』記載の名称は神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと)。 天照大御神の五世孫であり、高御産巣日神の五世の外孫と『古事記』『日本書紀』に記述されている。奈良盆地一帯の指導者長髄彦らを滅ぼして一帯を征服(神武東征)。奠都した畝傍橿原宮(現在の奈良県橿原市)にて即位して日本国を建国したと言われる。
略歴:天孫(天照大御神の孫。皇孫(高皇産霊尊の外孫)ともいう)・瓊瓊杵尊の曽孫。彦波瀲武鸕鶿草葺不合命(ひこなぎさたけうがやふきあえず の みこと)と玉依姫(たまよりびめ)の第四子。『日本書紀』神代第十一段の第三の一書では第三子とし、第四の一書は第二子とする。兄に彦五瀬命、稲飯命、三毛入野命がいる。稲飯命は新羅王の祖ともされる。 『日本書紀』によると庚午年](『本朝皇胤紹運録』によると1月1日庚辰の日)に筑紫の日向で誕生。15歳で立太子。吾平津媛を妃とし、手研耳命を得た。45歳時に兄や子を集め東征を開始。日向から宇佐、安芸国、吉備国、難波国、河内国、紀伊国を経て数々の苦難を乗り越え中洲(大和国)を征し、畝傍山の東南橿原の地に都を開いた。そして事代主神(大物主神)の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめ)を正妃とし、翌年に即位して初代天皇となる。『日本書紀』に基づく明治時代の計算によると即位日は西暦紀元前660年2月11日。皇后・媛蹈鞴五十鈴媛命との間には神八井耳命(かんやいみみ)、神渟名川耳尊(かんぬなかわみみ、後の綏靖天皇)を儲ける。神武天皇76年に崩御。
名称:
・神日本磐余彦天皇(かんやまといわれびこのすめらみこと):『日本書紀』(和風諡号)
・彦火火出見(ひこほほでみ):『日本書紀』(諱)
・狭野尊(さののみこと、さぬのみこと):第十一段の第一の一書での幼名。
・神日本磐余彦火火出見尊(かんやまといわれびこほほでみのみこと):『日本書紀』
・磐余彦火々出見尊(いわれびこほほでみのみこと):『日本書紀』神代第十一段第四の一書 ・磐余彦尊(いわれびこのみこと):『日本書紀』
・神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと):『古事記』
・若御毛沼命(わかみけぬのみこと):『古事記』・豊御毛沼命(とよみけぬのみこと):『古事記』
・始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと):『日本書紀』(美称) 漢風諡号である「神武」は、8世紀後半に淡海三船によって撰進された名称とされる。
事績/出立:神日本磐余彦天皇(神武天皇)の諱は彦火火出見(ひこほほでみ)。彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊の四男として庚午年1月1日(庚辰の日)に日向国で生まれた。母は海神の娘の玉依姫である。生まれながらにして明達で強い意志を持っており、15歳時(甲申年])に太子となった。長じて日向国吾田邑の吾平津媛を妃とし、息子の手研耳命を得た。甲寅年、45歳時に兄の五瀬命・稲飯命・三毛入野命や諸臣を集め東征を提案し、塩土老翁が語った東方の美しい地(大和国、奈良盆地)を紹介した。青山が四方を巡り、その中に天磐船に乗って天降った神がいるという。饒速日命という物部氏の遠祖である。この地こそ都を作り、天下を治める事に適した場所であろうと彦火火出見尊がいうと皆、賛成した。10月、諸皇子と舟師(水軍)を帥いて東征に出発。目指すは中洲(大和国)である。進んで行くと潮の流れの速い速吸の門で船が前に進めなくなった。難儀していると国神の珍彦と出会い、これを舟に引き入れて海導者(水先案内)とすることで無事に筑紫国の菟狭(『古事記』では豊国の宇沙)へ上陸することが出来た。珍彦は椎根津彦(『古事記』では槁根津日子)という名を与えられた。菟狭からさらに崗水門、安芸国を経た彦火火出見尊は、乙卯年3月吉備国に着き、三年間軍兵を整えた。
試練:戊午年2月、皇師(官軍、彦火火出見尊達)は吉備国より東へ向かい難波の碕に至った。3月に河内国草香邑の青雲白肩津楯津で泊り、楯津(東大阪市日下)に上陸した。この記述は当時の地形である河内湖の存在を示唆している。そして龍田へ進軍するが道が険阻で先へ進めなかった。そこで東へ軍を向けて胆駒山を経て中洲(大和国)へ入ろうとし、この地を支配する長髄彦と孔舎衛坂で戦った。戦いに利なく、長兄の五瀬命は流れ矢に当たって負傷した。そして日の神の子孫の自分達が日に向かって(東に向かって)戦うことは天の意思に逆らうことだと悟ることとなった。彦火火出見尊は兵を集めて草香津まで退き、再び海路南へと向かった。
5月、五瀬命の矢傷が悪化し茅渟(和歌山市近辺)で亡くなった。船が熊野に差し掛かると海は大嵐になり、高波に船は木の葉のように揉まれ海は荒れ狂った。進軍が阻まれることに憤慨した次兄、三兄の稲飯命と三毛入野命が「私の母は海神である」といい自ら海に入った。すると波も静かになり、嵐は去った。稲飯命には新羅の王の祖であったという記録がある。熊野に上陸したが、土地の神の毒気を受け軍衆は倒れた。そこへ熊野高倉下が現れ、霊夢を見たと称して天神から授かった神剣韴霊(ふつのみたま)を奉った。これはかつて武甕槌神が所有していた剣である。剣の霊力により軍衆は起き上がることができた。進軍を再開したが、軍衆は山をいくつも越えた所で道が分からなくなってしまった。すると天照大神が夢に現れて八咫烏を遣わし、その案内で軍勢は菟田下県に行着くことが出来た。
8月、菟田県を支配する兄猾を討伐し、弟猾が恭順。続いて吉野を巡行して井光、磐排別之子、苞苴担之子と出会った。9月、高倉山へ登り、周囲を見渡してみると四方要所は賊に囲まれていた。その夜に夢に天神が現れた。お告げ通りに多くの土器を作り、丹生の川上で天神地祇を祀った。この時に天の香久山から土を持ち帰った椎根津彦と弟猾に功があった。
決戦:10月、国見丘に八十梟帥を討ち、さらに多くの賊達を偽りの宴会で誅殺した。11月、磯城を支配する兄磯城を忍坂と墨坂から討伐し、弟磯城が恭順。12月、長髄彦と遂に決戦となった。連戦するが勝てなかった。すると急に黒雲が空を覆い、辺りも暗くなり、叩き付けるように雹が降って来た。そして一筋の光が差したかと思うと、金色の霊鵄が現れ、彦火火出見尊の弓先へ止まり、稲光のような瑞光を発した。長髄彦の軍は眩しくて目も開けられずに降参してしまった。 それでも長髄彦は恭順しなかった。彦火火出見尊が天神の子であることを疑ったためである。長髄彦は主君の饒速日尊が持つ神器である天羽々矢一隻と步靫(かちゆき)を見せた。それは本物であり、彦火火出見尊も自分の同じ神器を見せた。これも本物である。長髄彦は彦火火出見尊を天神の子と認めたが、それでも屈服しなかった。そこに饒速日尊が現れ降参するよう長髄彦を説得したが、改める気持ちがない長髄彦は饒速日尊に誅殺されることなった。己未年2月、彦火火出見尊は精鋭を選んで高尾張などの土蜘蛛を討ち破り、そこを葛城と改めた。また前年に兄磯城を破った場所を磐余と改めた。3月、中洲(大和国)の平定が終わったため、畝傍山のホトリに全軍を招集し、奠都の詔を高らかに宣言した(八紘為宇)。そして畝傍山の東南橿原の地に宮殿を造らせた。そこが今の橿原神宮である。庚申年9月、事代主神の娘の媛蹈鞴五十鈴媛命を正妃とした。
即位:辛酉年1月1日、橿原宮で天皇に即位して初代天皇となり、正妃を皇后とした。即位日はグレゴリオ暦(西暦)では紀元前660年2月11日であり、現在の日本の「建国記念の日」(旧・紀元節)となっている。即位2年2月2日、大業を成し遂げることに尽くした人々の功を定め、賞を行った。道臣命は築坂邑に、大来目は畝傍山の西の川辺の地(後の来目邑、現・橿原市久米町)へ居住させ、珍彦(椎根津彦)を倭国造に、弟猾を猛田県主、弟磯城を磯城県主に任じ、剣根という者を葛城国造にそれぞれ任命した。また八咫烏にも賞があった。 即位4年2月23日、天下を平定し終わり、海内無事である旨を詔し、鳥見山中に皇祖天神を祀った。即位31年4月1日、巡幸して腋上の嗛間丘に登り、蜻蛉の臀呫(あきつ の となめ。トンボの交尾する様)に似ていることから、その地を秋津洲と命名した。
神武天皇76年3月11日、橿原宮で崩御。127歳。翌年(丁丑年)9月12日、畝傍山東北陵に葬られた。 始馭天下之天皇(はつくにしらすすめらみこと)と称され、「神武天皇(じんむてんのう)」と後に諡された。
▲神武天皇。
●コラク氏の説
●ヤマモトタケルノミコト氏の説
●山内雄二氏の説(連載スタート2話目)
●島勝伸一氏の説(今回は休載)
●藤井榮氏の説
●オキタリュウイチ氏の説
●恋塚建生氏の説
●ANYA氏の説
コラク氏の説/ 神武天皇は本当に実在したのか?
初代神武天皇の存在については通説も含め、その実在性が問われている。 明治6年(1873)に制定された「紀元節」は、紀元前660年2月11日に初めてイワレビコが天皇に即位した事に由来するが、日本ではこの時代は縄文時代晩期にあたる。
『記紀』の内容をよすがとして、果たして当時代に九州南部から大軍を率いて畿内を目指し、瀬戸内海を航行して長髄彦らとの戦に勝利した後、本当に大和に入植を果たす事ができたのだろうか。 神武存在の痕跡については、『日本書紀』天武天皇元年(672)7月の条に、高市の県主に神武陵を祀拝させたとあり、当時神武陵が実際に存在していたであろう事を示している。
しかし、文久3年(1863)に宮内庁が現在の神武陵に訂正し治定し直している事からも、陵墓を意図的に変更した、或いは正しい情報を失っていたので本来の御陵とは別の陵墓に誤治定した可能性も指摘できよう。 現神武陵は「円丘」で時代的には従来のヤマト王権型の「前方後円墳」ではないが、これが紀元前600年辺りの墳丘墓との認識でないと筋が通らない。 同時に、後のヤマト王権型墓制である前方後円墳が出現する3世紀初頭までの約850年間、神武から7代経た倭迹迹日百襲姫の陵墓と云われる箸中山古墳までの間は、長突型円墳が存在しなかった事を意味する。 また考古的には、2世紀頃までの大和地域の墓制は小規模で伝統的な「方形」であると橿原考古学研究所の石野博信氏も著書に記している様に何れも大和地域の墓制と一致しない。
一方、九州説に至っては宮内庁が明治29年(1896)に神武天皇の曽祖父にあたるニニギの御陵として、帆立貝型の男狭穂塚古墳を治定しているが、これは5世紀前半の築造だ。 つまり、ニニギの曾孫の御陵が、曾祖父より1000年以上も遡った時代の大和に存在し、神代のニニギよりも約180年程早くに7代孝霊天皇の娘の御陵が作られたという大矛盾が起こるにも関わらず、これを宮内庁が治定しているのが事実なのだ。 九州・畿内両説を否定するつもりがなくとも、伝承と通説解釈との整合性が全くとれていないがために自ずと論説破綻するのだ。
さて通説に捉われない阿波説においても論者によりその意見は多岐に分かれる。 私説においては他の阿波説論者とも意見が大きく分かれるため詳細は記さないが、ヒントは一度も立ち寄った記録がないとされる四国阿波の伝承に隠されてあるとだけお伝えしておこう。
【執筆/コラク】 [問い合わせ先]なし |
コラク氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶公式ブログ
ヤマモトタケルノミコト氏の説/神武天皇―のちに初代天皇と仰がれるこの人物の足跡
一般に九州から東征し大和(奈良)で即位したと言われていますが、その物語の出発点は阿波の地とも言われていますので一緒に想像してみてください。
神武天皇の銅像が眉山にある。当初は日本に2体(徳島と宮崎)しかなく、明治30年に建立され、銅像は高さ約6m。ある資料では明治天皇の指示で乃木希典大将がお金を払って建てさせた。鋳造師が「神武天皇を知らない」という事で乃木大将は明治天皇の写真を持参し製作させたそうです。諱は神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれびこのみこと:「古事記」)意味は、神の倭(やまと)の伊(いこく)から波(なみ)が始まった礼(敬い)毘(助ける)最も古い命(みこと)と。神倭伊波礼毘古命がご祭神の神社が徳島の阿波市土成町樫原にある樫原神社です。
神武天皇の祖母「豊玉姫命」の延喜式内社は日本で阿波に2つのみ。名方郡「和多都美豊玉比賈神社」「天石門別豊玉比賈神社」。また妃の阿比良比売命「伊比良姫神社」も日本唯一で藍住町にあり、延喜式外「大社」と言われています。また娘のヒメタタライスズヒメ(媛蹈鞴五十鈴媛)を妃で差し出した事代主も阿波が本貫地(勝浦町)です。神武天皇の時代ものと言われる現在日本で一番古い観音寺遺跡木簡が徳島市国府町から出土、当時の税金の記載もあり重要な木簡遺跡で、もっともっと注目されるべきものです。幼少名は狭野尊(さののみこと)と言われ、佐野神社が徳島市渋野町にあります。
また饒速日勢力との戦いで1回目に敗れた時の地名が名前にちなんで佐野塚(徳島市国府町)と。そこで石井町まで撤退して久米家の力を借りて戦うのが神武東征ではと言われ、吉野川南岸に本拠を置く神武天皇が、吉野川北岸を攻め饒速日の勢力圏である鳴門市大麻町萩原から阿波市阿波町までを鎮撫する物語と言われています【阿波国古代研究所の笹田先生説】。もとより通説でも1度も侵略されていない四国。不思議ですね。何故でしょうか。本貫地だからですね(笑) また有名なのが太龍寺縁起ですね。舎心山太龍寺(しゃしんざん たいりゅうじ)。空海が100日間の虚空蔵求聞持法を修行された場所で、そこの縁起?に神武天皇が舎心山太龍寺にいたと。
最後に気になることは、神武天皇即位紀元(じんむてんのうそくいきげん)、皇紀で660年遡る歴史と、日本大陸以外から来られた話(徐福説)やイスラエル説やシュメール説ですね。また古事記と聖書の記述の類似性や金鵄はアークのケルビム説等々。分からないことや謎深い事も多数ですが、「八紘一宇(はっこういちう)」について初代神武天皇が『日本書紀』で「八紘(あめのした)を掩(おお)ひて宇(いえ)と為(せ)む」と述べたと言われ、「全世界を一つの家のようにする」という日本の建国の理念・スローガンは素晴らしいですね。人種が違っても、この同じ理念の旗のもと國を纏める。日本って本当に素敵ですね。日本と日本人を繋いで来て頂いたご先祖に感謝と敬意を表したいですね。
▲神武天皇像。
【執筆/ヤマモトタケルノミコト】 [問い合わせ先]heartfull80@gmail.com |
ヤマモトタケルノミコト氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶邪馬台国は阿波だった!(YouTube)
▶▶アワテラス歴史研究所アワラボ(Facebook)
▶▶一般財団法人阿波ヤマト財団(公式HP)
山内雄二氏の説/神武天皇はいつ・どこで即位したのか
日本の初代天皇である神武天皇の即位年は、日本史最大の謎の一つである。『日本書紀』は辛酉(しんゆう)の年、即ち西暦紀元前660年と記すが、史実としては受け入れがたい。通説では第21代雄略天皇の即位年を457年前後とし、雄略以降の年代は概ね信頼できるとされる。一方、雄略以前の紀年には諸説ある。紀年学を体系化した那珂通世(1851-1908)は、第10代崇神天皇の崩御を258年、神武天皇の即位を紀元前後と推定しており、私もこれを妥当と考えている。
神武天皇の即位年を考える上で重要なのが、邪馬台国と卑弥呼をめぐる「九州説」と「畿内説」である。天孫降臨の地は南九州の日向とされ、神武が瀬戸内海を経て大和に入り建国して初代天皇に即位したという神武東征神話は、両説に共通する。従って、九州説では、邪馬台国の卑弥呼は神武東征よりも前の時代に存在していなければならず、畿内説ではその逆となる。
『魏志倭人伝』によれば、卑弥呼の没年は248年前後である。九州説は卑弥呼=天照大神とするため、天照大神から6世の子孫とされる神武天皇の即位は、生物学的に一世代約28年と見積もると、350年前後となる。しかしこの年代では第21代雄略天皇(457年即位)までがわずか100年ほどしかなく、世代数が合わない。一方、畿内説では第10代崇神天皇期の倭迹迹日百襲姫(やまとととひももそひめ)を卑弥呼とみなしており、10世代遡ると初代神武天皇は紀元前後となり矛盾がない。阿波説の多くは卑弥呼=天照大神とするが、私は、紀年や時代背景について以前詳細に検討した結果、卑弥呼を崇神天皇の母・伊香色謎(いかがしこめ、式内伊加加志神社の祭神)に比定している。
では、神武天皇はどこで即位したのか。鍵となるのは天孫降臨の地である。阿波説では、気延山・高越山・津乃峰などが挙げられるが、筆者は、橘湾を望む明神山(阿南市)こそが降臨の地であり、麓の峯神社が宮跡であったと考える。古代、大国主は南阿波から海人族を率い、帰化系技術者のいた吉野川北岸の支配を目指したが、勝占神社付近で、高天原から国譲りを迫られた。事代主は海人族の結束を強くするため、降臨した瓊瓊杵を祭主として受け入れた。瓊瓊杵が述べた「この地は韓国(からくに)に向い。。。」の「韓国」は、朝鮮半島ではなく帰化人の住む吉野川北岸を指すと考えられ、板野町の「韓崇山(かんぞうやま)古墳群」はその痕跡として注目に値する。
その後、瓊瓊杵から4世の神武兄弟は海人族を率いて北上し、吉野川を遡って北岸の勢力を制圧した。筆者は、これを「神武東征」ではなく「神武北征」と呼ぶべきだと考える。饒速日を降伏させた最終地点、即ち神武天皇の即位地は、阿波説の先達の云う通り土成町の樫原神社であろう。同町高泰(たかたい)に鎮座する高泰神社について『阿波郡誌』には「明治28年8月高臺を高泰に改む」とある。この「高臺」という名が「高御座(たかみくら)」を連想させる点も興味深い。このように阿波の地名や伝承、古墳群を丁寧に読み解くと、通説とは異なる古代史像が浮かび上がってくるように思われる。
▲高泰神社。
【執筆/山内雄二(やまうちゆうじ)】 [問い合わせ先]090-1136-7625 |
島勝伸一氏の説/
(編集部注)
島勝伸一氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。
【執筆/島勝伸一(しまかつしんいち)】 [問い合わせ先]080-3533-5146(島勝) |
島勝伸一氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶島勝伸一解説 岡元雄作監督作品 ドキュメント映画『ルーツ オブ ザ エンペラー』令和6年6月27日 四国古代史サミット東京(YouTube)
藤井榮氏の説/木簡「佐井(さい)」が示す“物語歌”の舞台
◆ 初代神武天皇はどこでお生まれになったのでしょう?どこで生活されたのでしょう?皇后の比売多多良伊須気余理比売(ひめたたらいすけよりひめ)とはどこで出逢われたのでしょうか? ◆何をアホなことを。神武天皇は実在じゃない、“欠史八代(けっしはちだい)※1”って言うじゃないの。歴史上実在が確かな天皇は第10代崇神(すじん)天皇でしょ、“御肇国天皇(はつくにしらすすめらみこと)”とも言われてるし、としたり顔でおっしゃる方。 ◆それどころか、第14代仲哀(ちゅうあい)天皇までの国家起源の物語には殆ど史的事実というべきものはないとする津田左右吉以来の考え方。 ◆果ては記紀神話は架空の物語、いや8世紀に創作された“政治文書”だなどという解説まで飛び出しています。 ◆しかし私たちは、記紀神話は太古の史的伝承を伝えようとし、実在した王や英雄が次第に神格化されてやがて神話が形成されていったと考えています。 ◆阿波から始まっているんですよ、この国の歴史は。阿波では古事記・日本書紀の記録が神話や創作としてではなく、ほぼ実在した史実として連綿として組み立てることが出来るのです。 ◆阿波を抜きにして古代日本の歴史が成り立つわけがありません。
◆古事記によれば、神武天皇の后伊須気余理比売は“狭井河(さゐがは)”のほとりで住まわれ、3人の皇子(日子八井(ひこやゐ)命、神八井耳(かむやゐみみ)命、神沼河耳(かむぬまかはみみ)命)を産みますが、神武崩御後、妃阿比良比売(あひらひめ)命の子で3人の皇子の兄當藝志美美(たぎしみみ)命が3人の皇子の命を狙っていることを知り、母伊須気余理比売はこの危機を歌によって知らせようとします。 ◆『狭井河よ 雲立ちわたり 畝傍山 木の葉騒(さや)ぎぬ 風ふかむとす』【古事記中つ巻 神武天皇「多芸志美美命」の反逆のくだり】(現代語訳)狭井河から雲がこちらの方へ湧き起こってきて、畝傍山の木の葉がざわざわと騒いでいる今にも嵐が吹こうとしている。(荻原浅男・鴻巣隼雄校注・訳:日本古典文学全集「古事記・上代歌謡」小学館)。
◆歌によって陰謀をさとった皇子たち、末っ子神沼河耳命が多芸志美美命を討って第2代綏靖(すいぜい)天皇となりますが、歌中の「狭井河」がどこかは分かりませんでした。 ◆ところが、平成8年からの国道192号徳島南環状道路改築事業に伴う発掘調査で9~10年に発掘された徳島市国府町「観音寺遺跡」出土木簡※2の中に天武天皇の時代以前に行われた「五十戸税(ごじっこぜい)」(さと)の表記を持つ「波尓(はに)」「高志(たかし)」「佐井(さゐ)」(のちの郷名)が発見されました。「波尓」「高志」は和名抄にみえますが、「佐井」郷はすでに失われています。
◆しかし、木簡は阿波に「佐井」の地名が確かにあったことを証明したのです。「佐井」は、神武天皇と后伊須気余理比売、3人の皇子が住まわれた地でした。歌のとおり、いや古事記に書かれたとおり、神武天皇・伊須気余理比売が住まわれた地、それは阿波だったのです。 ◆徳島市渋野(しぶの)町には比売多多良伊須気余理比売が生まれ育った痕跡、「多々羅(たたら)川」が流れ、その直ぐ南には神武天皇の生まれた地を示す「佐野(さの)」がありますが、神武東征の出発地です。天皇の幼名は「狭野尊(さののみこと)」、ここには今なお尊を祀る「佐野神社」が鎮座、地元氏子の崇敬を集めています。その南には「樫田(かした)※3」、またその南には「神南(かんなび)」の地名まで残っているのです。 ◆神陵は同市丈六(じょうろく)町「丈六寺」西隣りの「秋葉(あきば)神社」鎮座地です。東西に延びる山(畝傍山)が現在「丈六団地」によって分断されていますが、元の山全体から見れば東北東の位置にあり古事記『畝傍山の北の方』、日本書紀『畝傍山東北陵』に合致しています。神社鎮座の小山全体が陵です。
◆ちなみに、古事記『阿多(あた)の小橋君(をばしのきみ)の妹、名は阿比良比売』とある多芸志美美命母、神武天皇の妃は板野郡藍住町の全国唯一社「伊比良比売(いひらひめ)神社」(国史見在社(こくしけんざいしゃ):現、伊比良咩(いびらめ)神社)で祀られています。「阿多」は板野郡のことです。 ◆これで、阿波が神武天皇と皇后伊須気余理比売の、また妃阿比良比売の住まわれた地であることが明確にご認識いただけたのではないかと思います。 ◆奈良は神武天皇とは縁もゆかりもない未開の地です。「橿原」をはじめとする関係地名はすべて平城遷都後藤原不比等により古事記の記述を基に阿波のダミーとして創作されたものです。 ◆諸学者は古事記の記述と奈良の地名の多くが一致するので固定観念からそのごまかしに気が付かないのです。
◆このようなことがありました。古代律令(りつりょう)期国府・国衙(こくが)近くの前述「観音寺遺跡」出土の41号木簡は「己丑(つちのとうし)」の干支(かんし)が記されているので、地元学芸員はみな西暦689年(持統天皇4年)を指すと驚きと歓声で沸き上がったのですが、一人の著名な学者がこうおっしゃたのです。 ◆「都から遠く離れた地方、しかも四国の阿波という田舎の遺跡からそんな古い木簡が出るはずがない。」この一言で皆物が言えなくなったとは筆者が地元の学芸員から聞いた話です。 ◆2017年、奈良平城京出土木簡群は国宝になりました。都から出土した木簡は地方の遺跡から出土した木簡より新しい時代の木簡であっても国宝?!いつになったら古代“日本の本つ国”阿波に目が向けられるのでしょうか。待ち遠しい限りです。
※1 「欠史八代」とは、第2代綏靖天皇から第9代開化(かいか)天皇までの八代の天皇を指し、通説諸学者は歴史上実在しない後世創作の天皇と考えています。しかし、埼玉(さきたま)古墳群「稲荷山(いなりやま)古墳」出土の“稲荷山鉄剣”(辛亥年:471年)115字の金象嵌(きんぞうがん)にその名を刻されている「オオビコ」(大毘古(おほびこ)命:第8代孝元(こうげん)天皇の御子)の存在によって第8代・第9代天皇の実在が証明され、通説「欠史八代」はすでに崩れ去っているのです。
※2 平成27年9月4日、木簡や木製品など922点が「徳島県観音寺・敷地遺跡出土品」として国指定重要文化財に指定されましたが、特筆すべきは豊富な質量を誇る木簡群で、「論語木簡」・「勘籍(かんじゃく)木簡」などの記述内容からも全国的に注目されている飛鳥時代から平安時代にかけての木簡。近くに国府・国衙が存在することもほぼ確定しました。 ※3 神武東征において勝鬨をあげたのは阿波市土成町「樫原神社」鎮座地辺りだと思われますが、鎮撫地で即位することはなく、生誕地の徳島市渋野町に帰り「樫田」辺りで即位されたのではないかと思われます。
【参照リンク】
①小著『古代史入門』97~102頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ13(54~57頁)、(Amazon電子書籍・印刷本)
▲「神武天皇の幼名、狭野尊(さののみこと)を祀る「佐野神社」。
【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】 [問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp |
藤井榮氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶古代史塾(公式HP)
▶▶古代史塾(YouTube)
オキタリュウイチ氏の説/神武天皇と阿波の関係
日本は、世界最古の王朝をいただく国であり、世界に誇れる国家であることは言うまでもないよね。もし世界中の王族が大集合したとしたら、一番上座を用意してくれるのは、もちろん126代続く、日本の天皇なんだ。
◾️神武天皇と阿波の深い関係
では、初代の天皇は?もちろん神武天皇だよね。奈良には、神武天皇を祀る「橿原神宮」がある。ホームページには「日本最古の社へようこそ」と書かれており、なんとも感動的。で、創建年のページを見ると、「明治22年創建」ではないか。では、神社が出来る前は、この地に遺跡でもあったか?何を隠そう、なにも存在しない、単なる「原っぱ」だったと、橿原神宮のサイトに堂々と書かれている。「神武天皇を祀る神社が奈良にないとカッコ悪い」から、明治時代に「橿原神宮」を創り、「橿原市」も創り、「橿原神宮前駅」も創っちゃいまして、ブランディングは大成功しました。
◾️古代は、神武天皇はどこにいた?
じつは古代は、神武天皇すなわち「神倭伊波礼比古命(かむやまといはれひこのみこと)」は、阿波にしか祀られていなかった。徳島県阿波市にある、「樫原神社」に、神武天皇は祀られていた。この古社、創建年代は不詳だが、平安時代の神仏習合の際、別当寺(白蛇山法輪寺)を嵯峨天皇が勅命し、空海が建立している事からも、当然にその前から存在している事がわかる。この扇状地から昭和61-62年に徳島県教育委員会の調査によって「北原遺跡」が発見されている。弥生時代中期後半の遺跡で、直径7mの円形の居住地、土器、石鏃等の他、エゴノキの実等が詰まった壺や炭、焼土が大量に出土している。神武東征説話は吉野川下流南岸勢力が北岸勢力を従属させた歴史の記憶で、樫原神社の東西にその舞台が連なってるんだ。
しかし、奈良県 橿原神宮が明治22年に創建されて直後、『この峯で"大爆発の如き轟音"とともに山崩れが起り、この神社は谷の中に埋もれてしまったが、心痛めた村民が掘り出し再建されている(土成村史より)』。
ここは、山崩れの起こるような地形では一切無い。地元の人達も「人為的なもの」だと理解しているが、一体何の為にそこまでして「阿波の地」を隠す必要があったのか。
神武天皇が徳島出身だと、カッコ悪いの?
教えておじいさん。
▲樫原神社①。
▲樫原神社②。
【執筆/オキタリュウイチ】 [問い合わせ先]office@deepbranding.jp |
オキタリュウイチ氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶公式ホームページ
恋塚建生氏の説/神武東征について語ってはいけない?
古代史研究発表において、一番デリケート?な場面がいわゆる神武東征の場面である。ネットやユーチューブでは、面白おかしく矛盾だらけの行程、宮崎~熊本~福岡とか、自分の想像を膨らませたチャンネルが数多くみられるのだが・・・明治政府における神社の改名や、嘘の歴史教科書作成、さかのぼっては、古事記が隠されてきたことや、日本書紀の制作の真実も、古事記中巻における、いわゆる神武東征の記述が原因であると、我々は考えている。
また、左翼思想を持つ歴史研究者のなかには、神武天皇は存在しないなどと言う人がいるが、その主張もまた極端すぎて賛成できない。
では、なぜ神武東征を語ってはいけないかと言うと。一つは「安曇」の表現が記述されているからである。安曇とは、古代の人々の人相と言ってよいが、ここでは書くことを控えます。二つ目は「五瀬命」の死の原因であるが、これも詳しく書くことを控えます。
最後に、我々グループ内でもいわゆる神武東征については、意見が完全に割れています。一つは、私の考えもこれですが、神武天皇が和歌山~熊野~近畿に渡って行ったという説。もう一つは阿波から出ていないという説です。後者の説をとれば、安曇表現の人も阿波人、五瀬命を殺したのも阿波人の可能性があり、神武東征を詳しく語ってはいけない理由は、まさしくここにあるのです。
【執筆/恋塚建生(こいづかたけう)】 [問い合わせ先]ogenkisama0@gmail.com |
恋塚建生氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶魏志倭人伝を最新技術で読み解いた!(YouTube)
ANYA氏の説/神武天皇は実在したのか?
定説では、初代神武天皇が神武東征によって「竺紫の日向」から奈良の大和に発ち、ヤマト王権を打ち立てた事になっています。しかし「竺紫の日向」は阿波説で幾度となく取り上げられているように、その土地の東端という意味であり、九州の日向の事では無いと考えられます。九州の日向が日向と呼ばれるようになるのは、神武天皇から12代も後の景行天皇の時代からで、これは「日本書紀」にもそう書かれているのです。つまり定説で言われる九州から奈良に東遷した神武東征は、作られた話だったという考えになります。
神武天皇には色々な逸話が記されていますが、次の綏靖天皇から九代開化天皇までは、逸話や文献的な物証が乏しく、二代から九代までの、いわゆる欠史八代と呼ばれる天皇は、実在の天皇ではなく、あくまで神話上の存在と考える古代天皇虚像説も有ります。
九代開化天皇までが神話上の天皇であるのなら、初代神武天皇も八代も続く歴史の空白期間から見れば神話上の天皇であり、実際は10代崇神天皇が、初代の天皇という考えが成り立ち、今やその説が主流にもなってきています。この古代天皇虚像説の最大の理由は、欠史八代の天皇の空虚な事績もさることながら、なによりも欠史八代の天皇の神社すら畿内に存在しない事が最大の理由と考えられます。
しかし、四国特に阿波には欠史八代にまつわる神社が多く存在しています。たとえば8代孝元天皇の妃で、なおかつ9代開化天皇の皇后(二代の天皇と結婚)にもなり、古代では実在性が最も高い天皇とされる10代崇神天皇を産んだ、古代天皇家では凄い影響力のあった女性の、伊迦賀色許売命(イカガシコメノミコト)を祀る式内神社は、日本全国で唯一、徳島県吉野川市にしか存在していません。また、吉野川近くに、伊賀々志という地も有る事から、少なくとも10代崇神天皇までは、阿波が皇都であり、阿波に欠史八代は存在したことに間違いないと考えられます。欠史八代が阿波に存在したのであれば、初代神武天皇も阿波の出自という事になります。
神武天皇の別称は【始馭天下之天皇】(はつくにしらすすめらみこと)とされていますが、この意味は初めて天下を治めた天皇と言う意味になり、同じ読み方の(はつくにしらすすめらみこと)【御肇国天皇】と称される、崇神天皇は、歴史上初めて戸口を調査し我が国初の労役や税の導入始めた事から、国を初めて統治した天皇、という意味だと考えられます。
【執筆/ANYA(アンヤ)】 [問い合わせ先]anyautb@gmail.com |
ANYA氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶ANYAチャンネル(YouTube)
テーマ⑮【完】。
次回のテーマ⑯は・・・
「日本唯一。ヤマトの国の魂を奉る倭大國魂神社」
記事公開日は2026年2月15日(日)。乞うご期待










