2026/08/01 01:00
あわわ編集部
邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】9話目/古代豪族「中臣氏」とは
古代史を通して徳島の魅力を再発見するために連載スタートした「邪馬台国は阿波だった!?」。シーズン1の16話+特別編2話では書き足りないことがまだまだあるということで、なんとなんとシーズン2突入でございます。シーズン1を通して、徳島県民のみなさまへ多少なりとも周知できたのではと思っていますが、老若男女全ての県民に認知してもらえるようシーズン2もパワーアップして続けていく所存です。
ということで!
この連載を読みながら邪馬台国阿波説に誇りを持ち、畿内説や九州説に負けず劣らず盛り上げていきましょう。
この企画の実はすごいところ
「邪馬台国は阿波だった」と説を唱える人たちでも詳細の各論では完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。
そこでタウン誌としてできることは何かと考え、それぞれの説を一同に掲載するまとめ記事を企画しました。1つのテーマについて、それぞれが自身の論を展開していく・・・。説を横串にしたことで、微妙な違いを比較することが可能に。
ここが実はすごいところなんです。そんな無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者のみなさんには頭が下がります。それも一重に邪馬台国阿波説を今以上に拡散していこうという想いから実現できました。
※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、本記事の内容は著作権法により保護されています。無断での転載、複製、改変、及び二次利用は固く禁じております。記事自体のシェアは大歓迎です。
邪馬台国は阿波だった!?【シーズン2】9話目/古代豪族「中臣氏」とは
【通説】
中臣氏とは
藤原姓を賜った、ヤマト王権の神事や祭祀を司る存在である。
中臣氏は、古代の日本において忌部氏と共に神事や祭祀を司った氏族。氏名は「神と人の中を執りもつ臣」を意味する「ナカツオミ(中臣)」が「ナカトミ」に変化したもの。天照が隠れて世界が闇に覆われたとき、祝詞を奏上して引き出すのに貢献したアメノコヤネ(天児屋根命)を祖とする。中臣氏の後継氏族である藤原氏の氏神・春日大社の祭神は、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)から鹿に乗って奈良にやってきたと伝えられる。
アメノコヤネ(天児屋根命)を祖とする。本拠地は河内国河内郡が有力で大阪府東大阪市にはアメノコヤネを主祭神として祀る神社がある。
中臣鎌子 ~ 崇仏派
崇仏・排仏論争では、中臣鎌子が物部尾輿と共に仏教受容に反対した。
三十代・敏達天皇の代には、中臣勝海が物部守屋と共に「疫病が流行したのは蘇我氏の仏教信仰のせい」と奏上している。その後、守屋の挙兵に呼応し、押坂彦人大兄皇子と竹田皇子の像を作って呪詛した。しかし、少し経ってから反乱計画が成功しないだろうと予感し、押坂彦人大兄皇子の宮に入る。そして、門を出たところで迹見赤檮に殺害された。
中臣氏で最も有名な中臣鎌足は『日本書紀』では644年(皇極天皇3年)に初めて歴史に現れる。祭祀の管理を司る職に任じられたが、病気を理由に固辞し、摂津国三嶋郡に退去した。藤原氏の歴史書である『藤氏家伝』では大和国高市郡の出身としているが『大鏡』では常陸国(茨城県)出身と記述されている。『藤氏家伝』は鎌足の曾孫である仲麻呂が記したものであり、一族が地方出身という不都合な事実を隠そうとしたとも考えられる。
鎌足が死の前日に藤原姓を賜る。乙巳の変で蘇我氏を滅ぼす。『日本書紀』によれば、蘇我氏打倒を志していた鎌足は蹴鞠の催しの場で中大兄皇子に近づいた。そして二人は乙巳の変で蘇我本宗家を滅ぼし、鎌足は内臣に任じられた。654年(白雉5年)には大臣の地位を示す紫冠を授かり、中大兄皇子の側近として確たる地位を築く。669年、鎌足は大織冠と藤原姓を賜り、その翌日に死去した。
鎌足以降も中臣姓も存続
鎌足が藤原性を与えられたのを受け、中臣氏の人たちは藤原姓を称した。だが698年、藤原姓は鎌足の子である不比等とその子孫のみが称するものとなり、それ以外の一族は中臣姓に復した。不比等が成長するまで暫定的に藤原氏の氏上を務めた意美麻呂も中臣姓に戻っている。これにより、従来の中臣氏と不比等系の藤原氏が分立した。
▲藤原鎌足氏。
●山内雄二氏の説
●ANYA氏の説(今回は休載)
●中年タケシ氏の説
●オキタリュウイチ氏の説(今回は休載)
●百万平氏の説(今回は休載)
●シン・きーちゃん氏の説
●ヤマモトタケルノミコト氏の説
●藤井榮氏の説
山内雄二氏の説/阿波における中臣氏の痕跡探求
中臣氏は、天照大神の神話時代に登場する天児屋命を遠祖とし、代々朝廷祭祀を司る氏族として知られている。飛鳥時代には、中大兄皇子に従った中臣鎌子(のちの藤原鎌足)が乙巳の変(645年)で功を挙げ、天智天皇の最側近として重用された。鎌足は669年、死の前日に天智天皇から藤原姓を賜るという栄誉を受ける。その後、持統朝においては鎌足の次男藤原不比等が政権の中枢を担い、以降、平安時代にかけて藤原氏が圧倒的な権勢を誇ることは周知のとおりである。
ただし、中臣氏が藤原氏へと氏を改めたわけではない。氏の長者であった藤原鎌足の死後も、従兄弟筋の系統が中臣氏を称し続け、朝廷祭祀の最高位である神祇伯(神祇官の長官)を継承した。1046年には、大中臣氏は皇家に連なる白川家に神祇伯の地位を奪われるものの、大中臣(中臣)氏自体はその後も神祇官として存続していく。
さて、中臣氏と阿波との関係についてであるが、前々回の「忌部氏」を扱った回で昭和39年刊『鴨島町誌』を引用し、麻植郡鴨島町牛島には天太玉命を祀る忌部主神社(現在は蛭子神社・忌部神社と、その東方に「天児屋命を祀る天神社(現在は天満神社)」が存在していたことを述べた。
神武天皇の御宇、天太玉命の孫である天富命が天日鷲命の孫を率いて阿波国麻植郡に至った地点は、現在の麻植郡鴨島町牛島辺りであったと考えられる。その後、天太玉命を祖とする中央忌部氏は宮都の移遷に伴って畿内へと従い、天日鷲を祖とする阿波忌部氏はさらに西方へ開拓を進め、最終的に現在の麻植郡全域を本領とするに至ったと推測される。中臣氏についても、天児屋命の孫が朝廷祭祀を担う職にあった点で忌部氏と同業であることから、中央忌部氏と同様に、現在の鴨島町牛島に至った可能性が高い。天神社が牛島の東部に位置することを踏まえると、中臣氏の系統は阿波忌部氏とは逆方向、すなわち東方へと進出したのではないかと想定することができる。
ところで、栗田寛が1873年に著した『神祇志料』の阿波国式外諸神の項には、「中臣大鳥神社、平城天皇大同元年(806年)、中臣大鳥神に阿波地二戸を奉る。新鈔格勅符」との記載がある。また、同氏が1906年に著した『大日本史・志』の阿波国式外六社の項には、次のように記されている。「中臣大鳥神社、今板野郡に在り。郡名土人の説に拠る。大寺村に在り。大鳥社と称す。大同元年、本国の封二戸を定む。新鈔格勅符。按ずるに本郡は蓋し和泉大鳥社の封戸の在る所、故にその神を分祀せしなり。姑(しば)らく附して考えに備える。」
これらの記述の大意は、806年に阿波国板野郡大寺村の中臣大鳥神社が封二戸を賜ったというものである。ただし、板野郡にはもともと和泉国の大鳥社の封戸が置かれていたため、阿波の中臣大鳥神社は和泉国の大鳥社の分祀社であると粟田は解している。確かに、現・堺市に所在する大鳥大社は和泉国一宮であり、式内名神大社でもあることから、明治期の国学者が阿波国の中臣大鳥神社をその分霊社とみなしたのは無理のないことである。さらに、現在では大寺村の中臣大鳥神社は現存せず、『板野郡誌』によれば明治44年に板野郡板野町大寺の亀山神社に合祀されたと記されている。
しかし、もし神代から奈良平城京遷都までの間、宮都が阿波にあったとする説に従えば、大鳥氏の本貫地は阿波国板野郡にあったことになる。その場合、後年に大鳥氏が阿波に先祖を祀るため中臣大鳥神社を創建した可能性、或いは阿波国の中臣大鳥神社こそが和泉国の大鳥大社の元社であったとする見解も成立し得る。太田亮の『姓氏家系大辞典』には、「大鳥氏は和泉国大鳥郡大鳥郷より起り、天児屋命の後裔で中臣氏の族である。」と記されているが、大鳥氏は歴史上あまり知られた氏族ではない。なお、幕末に五稜郭で戦った明治の元老・大鳥圭介は古代大鳥氏とは無関係であり、昭和の漫才師、鳳啓助も関係ありません。。。ポテチン。
話は変わるが、板野町大寺の南には、中富(現在は板野町西中富、藍住町東中富)という地名がある。岩利大閑は、『道は阿波より始まる』に「当地は本来「中登美(なかとみ)」と表記し登美毘古(とみびこ)、登美夜毘売(とみやびめ)の兄妹が住んでいた。そこへ神武天皇の軍が攻め入り戦闘となるが、阿波郡から邇芸速日(にぎはやひ)が駆けつけ神武軍に味方し、登美毘古は滅ぼされる。しかし、妹の登美夜毘売は邇芸速日の后となり、その子孫が当地に住み着き、中登美を姓とした。中登美鎌子(藤原鎌足)もその一族である。」と述べている。即ち、中臣氏・藤原氏の遠祖は登美毘古であるとの説を提示している。
はて、登美毘古の祖先が中臣氏と無関係であったのか、或いは天孫降臨後の中臣氏と何等かの関係を有していたのかについては不明である。また、当地に鎮座する「大富彦神社(藍住町東中富)」の由緒についても、中世の犬伏氏を祀る社であることは周知であるが、古代からここに鎮座していたかどうかは判然としない。ただし、犬伏神社ではなく大富彦神社という社名は、地名「中登美」とも相まって、登美毘古の存在を想起させさせる点で興味深い。古代の伝承の上に中世の歴史が重層的に積み重なることは、特に地方史においてはよくある現象ではある。
鳴門市北灘町粟田に、目の神様として知られる葛城神社が鎮座している。皇都阿波説に基づくと、天智天皇の近江大津宮は通説の滋賀県ではなく、「淡海(おうみ:阿波・淡路の海)大津宮」として鳴門市大津町辺りに比定される。淡海を望む地に位置し、一言主神を祀る葛城神社の社伝には、天智天皇が当地で落馬して目を負傷したという説話がある。天智天皇と深い信頼関係を築いた中臣氏も、宮都に近い現在の鳴門市および板野郡周辺に居住していたのではないかと考えられる。
板野郡は、徳島市国府町と並んで古墳が非常に多く、古来より栄えた地域である。履中天皇・允恭天皇の宮都もあったとされることから、この地域には朝廷に仕える豪族が居住していたと推測される。中臣氏もその中の一氏族であり、麻植郡牛島から板野郡へと移動していった可能性が高いと、私は考えている。
▲天満神社(鴨島町牛島)。
▲亀山神社(板野町大寺)。
▲大富彦神社(藍住町東中富)。
【執筆/山内雄二(やまうちゆうじ)】 [問い合わせ先]090-1136-7625 |
ANYA氏の説/
ANYA氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。
【執筆/ANYA(アンヤ)】 [問い合わせ先]anyautb@gmail.com |
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中年タケシ氏の説/地名から神話へ――「那賀」の祭祀エリートが描いた国家デザイン
こんにちは、中年タケシです。
古代宮廷祭祀を担った中臣氏と忌部氏の関係は、一般には「祭祀を分担した氏族」として理解されています。しかし、「阿波に王権の原初的基盤があった」とする阿波説の立場から眺めると、両者の役割はより立体的に見えてきます。
阿波忌部が神聖な麻や木綿などの祭祀資材を生産し、祭祀の物質的基盤を支えた集団であったとすれば、中臣氏は祝詞や神勅の解釈を通じて祭祀の意味を体系化し、新たな地域へ王権の理念を浸透させる役割を担った可能性があります。いわば、忌部氏が「物」を司り、中臣氏が「言葉」を司ったという構図です。
この視点から注目されるのが、阿波国南部を流れる那賀川流域の存在です。
古代阿波には「長国(ながのくに)」という地名が伝えられており、その中心は現在の那賀川流域であったと考えられています。そして「長(なが)」と「那賀(なか)」の音韻的な近接性から、一部では中臣氏の源流をこの地域に求める見解も提示されています。もちろん、これを直接証明する史料は存在しません。しかし、もし中臣氏が那賀川流域に起源を持つ祭祀集団であったならば、神話や国家理念の中に「ナカ」という概念が繰り返し登場することも、別の意味を帯びて見えてきます。
例えば。
・中臣(なかとみ)
・葦原中国(あしはらのなかつくに)
・神と人の仲介者としての「中」
といった表現です。
通説では、中臣は「神と人の仲を取り持つ臣」を意味し、葦原中国は高天原と黄泉国の中間にある人間世界を指すと解釈されています。しかし阿波説の視点では、これらは単なる抽象概念ではなく、「那賀(ナカ)」という地理的・文化的記憶が神話的言語へ転換された結果である可能性も考えられます。中臣氏は律令国家の成立過程において、祝詞や寿詞を通じて天皇統治の正統性を支える役割を担いました。祖神である天児屋根命は天岩戸神話や天孫降臨神話において重要な位置を占め、後世の中臣氏・藤原氏はその神話的権威を政治的基盤として活用していきます。この過程を象徴的に表現するならば、中臣氏は「言葉によって国家を設計した祭祀エリート」であったと言えるでしょう。
一方で、祭祀資材の供給や技術伝承を担った忌部氏は、律令国家の成熟とともに相対的に影響力を低下させていきます。その不満や危機感は、平安初期に忌部広成が著した『古語拾遺』にも色濃く反映されているように見えます。こうして眺めると、中臣氏と忌部氏の関係は、単なる祭祀氏族間の対立ではなく、「物」と「言葉」、「生産」と「理念」という二つの国家形成原理の競合として捉えることもできるでしょう。
そして阿波説に立つならば、その原点には那賀川流域という一地域の記憶が存在していたのかもしれません。地名としての「那賀」が、やがて神話の「中」となり、さらに国家理念の「中国」へと昇華されていった――。そのような視点から古代史を読み直すことは、史実の確定というよりも、神話と地理、そして政治思想がどのように結びついていったのかを考える上で興味深い試みと言えるでしょう。
【執筆/中年タケシ】 [問い合わせ先]なし |
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オキタリュウイチ氏の説/
オキタ氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。
【執筆/オキタリュウイチ】 [問い合わせ先]office@deepbranding.jp |
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百万平氏の説/
百万平氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。
【執筆/百万平(ひゃくまんぺい)】 沖縄在住 観光業に携わる傍ら、趣味で古代史をテーマにした漫画やブログ、作曲を細々とおこなう。好きな都道府県は徳島県。【古代史経歴】●2020年、日本の古代史に興味を持つ。●2021年、出張の合間を縫って各地の神社巡りを開始。●2023年、阿波徳島の重要性に気づき魅了される。同年、Instagramで阿波古代史をテーマにした漫画『籠の中の卑弥呼』連載開始。ヤマモトタケルノミコトさんにいつかお会いすることを夢見る。●2024年、ヤマモトタケルノミコト氏のラジオに出演し夢叶う。 [問い合わせ先]なし |
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シン・きーちゃん氏の説/古代豪族「中臣氏」とは
お元気様です。
今回は、阿波忌部氏と神前で並び立っていたもう一つの祭祀氏族、中臣氏(なかとみうじ)をご紹介します。中臣鎌足はのちに天智天皇から藤原の姓を賜り、ここから藤原氏が生まれます。中臣氏は藤原氏の”母体”だった一族なんです。
中臣氏の祖神は、天児屋根命(あめのこやねのみこと)。古事記の天岩戸神話で、岩戸の前で祝詞(のりと)を奏上した神様です。忌部氏の祖神・天太玉命は、岩戸の前で幣(ぬさ)と祭具を捧げた神。
**中臣=言葉で神意を動かす一族**
**忌部=物を整えて神に捧げる一族**
ところが、天児屋根命について面白い事実があります。『古語拾遺』系の系譜では、天児屋根命は神産巣日(カミムスビ)系に位置づけられている。一方、忌部の祖神・天太玉命は高皇産霊(タカミムスビ)系。高皇産霊神は皇祖神に直結する天孫系、神産巣日神は出雲・地祇系。つまり**「血筋」で言えば、皇祖神に近いのはむしろ忌部氏のほう**だったんです。
それでも中臣氏が皇室祭祀の中心に座れた理由は、血ではなく「声」。天孫降臨に随伴する五伴緒として、神に祝詞を届ける専門職を担ったからでした。そして、奈良時代以降、伊勢神宮にも変化が訪れます。律令期、伊勢神宮の上層祭祀は大中臣氏の祭主・宮司、内宮は荒木田氏、外宮は度会氏という体制に整理されました。平安初期以降、大中臣氏は祭主職を既得権化し、藤原氏の政治的成功がその権威を強く後押しします。忌部氏が伊勢から完全に消えたわけではありません。幣帛・奉幣・修造といった国家祭祀の限定的役割で残り続けた。けれど常設の神職秩序からは、静かに退いていったんです。
ここで阿波に視線を戻すと、不思議な景色が浮かびます。中央では中臣・藤原が祭祀の表舞台を担う。けれど阿波では、大噂祭に納める麁服(あらたえ)という麻の布を通じて、忌部の名が千年以上残り続けた。ここからは妄想ですが――血筋では天孫系に近かった忌部氏が、「物の祭祀」の記憶を抱えて阿波の山里に残った。中央の声が大きくなるほど、阿波の布は深く深く、皇祖神祭祀の奥へ届けられていった。神前のライバルを見に行ったら、むしろ阿波忌部氏のすごさが浮かび上がってくる。第9回は、そんな回でした。
一緒に歴史沼にハマりましょう。
▲中臣氏とは。
【執筆/きー(Key)】 [問い合わせ先]history.key21@gmail.com |
きー氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶シン・きー歴史沼チャンネル(YouTube)
▶▶きー📖歴史沼チャンネル(X)
ヤマモトタケルノミコト氏の説/古代豪族「中臣氏」とは
古代日本の歴史を語るとき、決して避けて通れない二つの名門がある。祭祀を司った「忌部氏」と国家の中枢を担った「中臣氏(藤原氏)」です。阿波は古くから忌部氏の本拠地として知られ、天日鷲命&天太玉命を祖神と仰ぐ一族は、麻や木綿を育て、神に捧げる神聖な布「麁服(あらたえ)」を調え、大嘗祭をはじめとする朝廷最高の祭祀を支え続けてきました。
一方、中臣氏は天児屋根命を祖神とし、朝廷で祭祀や神事を執り行う役割を担った。そして飛鳥時代、中大兄皇子とともに蘇我氏を倒した中臣鎌足は、天智天皇から「藤原」の姓を授かり、藤原氏として日本最大の名門貴族へと変身していきますね。ここで興味深いのは、祭祀を担う二つの氏族が、時代とともに異なる道を歩んだことです。阿波古代史の視点に立てば、日本の歴史は「忌部から中臣・藤原へ」という祭祀と権力の大きな流れとして捉えることもでき、710年の阿波から奈良への遷都はこのパワーバランスの流れでうまれたと私は思っています。これを推進し、日本の中央集権国家の基盤を築いた藤原氏は大きな権力を手にしていったのではと思います。
勿論、この解釈には仮説の部分が多くあるのは分かっています。白鳳の大地震や白村江の戦いの敗北と色々な要件が絡まっていますね。歴史とは勝者が語る物語ではありますが、表舞台から姿を消した阿波忌部氏と御殿人が阿波の地から大嘗祭での「鹿服調進」が続いているのを考えると日本古代の不思議が際立って見えてきますね。まだまだ我々が知りえない秘密が隠されていそうです。忌部氏と中臣・藤原氏の関係を見つめ直すことは、日本建国の精神と祭祀の原点を探る壮大な物語でもありますね。
職掌と氏名の由来 「中臣」という氏名は、「神と人の中を取り持つ臣」と言われ、天皇側近の神官として神託を伝える職掌に由来。中臣氏は宮廷祭祀の整備に伴い、欽明朝頃に「中臣職」が創設され、連(むらじ)の姓を賜りました。天児屋命は骨ト(占い)を得意とし、天皇家の相談役としての役割も果たしていたとされます。中臣鎌足は645年の大化の改新で活躍し、669年に藤原姓を賜り、政治的業績では藤原不比等は律令制度の整備に深く関わり、701年には大宝律令の制定に中心的役割を果たし、710年の平城京遷都を推進し、日本の中央集権国家の基盤を築きました。彼の政治手腕により、藤原氏は天皇の外戚として権力を確立し、後の藤原氏の権力構造の設計も不比等の真の功績といわれています。個人として権力を握るのではなく、藤原氏一族が長期的に皇室に影響力を持ち続けられる構造を設計した点で、彼の死後、息子たちは北家・南家・式家・京家の四家に分かれ、それぞれが平安時代を通じて政治の表舞台で活躍していき藤原氏の地位を固めました。
不比等の名前「不比等」は「等しく比べる者なし」という意味と聞いたときには少し納得してしまいました。また竹取物語の登場人物のモデルとも言われ、藤原不比等も、父親である中臣鎌足(藤原鎌足)も謎多き人物ですね。
ここからはヤマモトタケルの妄想想像コラムになります。まず、いきなりですが、藤原不比等は天智天皇のご落胤説がありますね。確かに天武天皇の時にはあまり活躍なく「記紀編纂を言われましたが」、表にあまり登場していません。天智天皇系グループであったため、対抗する天武天皇からは距離をとられていたのでしょうか。また妃の一人、県犬養三千代(橘三千代)は、不比等、持統と同じく、飛鳥戸部系氏族「渡来系士族」に養育されていたようで、後々、不比等と三千代の娘、光明皇后が聖武天皇の后となっています。三千代が脚光を浴びたのは、持統、元明、元正天皇など歴代の天皇から深く信頼されたからと言われています。この辺りは天智系(反天武系)ですね。天智天皇は百人一首:1番:天智天皇:【秋の田の 「かりほの庵の」苫をあらみ わが衣手は 露にぬれつつ 】とありますが、「かりほの庵の=仮庵の祭り:ユダヤ教の三大巡礼祭」と言われている方もいますね。そして犬養氏(ベンヤミン族:イスラエル)ではないかと。もはや私では、上手に纏めて書ききれませんが、百人一首に天武天皇の歌はなく、京都の泉涌寺(天皇家の菩提寺)にも天武天皇系の位牌がないですね。
これは本当に藤原氏の闇なのか? 天武天皇が編集を命じて作られた『日本書紀』を改ざんし、乙巳の変で蘇我氏を貶め、天照大神という祖神を改変したのが藤原不比等(藤原氏)ではないかという古代史研究者がいます。そのように藤原一族に嫉妬するのは、時代に乗り律令制をうまく使い、天皇家に妃を送り出すシステムで天皇家と日本が長く続けてくることができた事実にたいする羨ましい気持ちもあるのですかね。
この教訓をどう生かすかで、今後の日本が素晴らしい国になっていけたらと思いますね。その為にはこのコラムを読んでくださった方々が一緒に世界をよく変えていくことを共有して行動に移していきましょう。まずは選挙に投票に行きましょうか。
▲中臣氏と忌部氏。
【執筆/ヤマモトタケルノミコト】 [問い合わせ先]heartfull80@gmail.com |
ヤマモトタケルノミコト氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶邪馬台国は阿波だった!(YouTube)
▶▶アワテラス歴史研究所アワラボ(Facebook)
▶▶一般財団法人阿波ヤマト財団(公式HP)
藤井榮氏の説/水を司る家筋
◆「私はただ懸命にお仕えしてきたんだ、懸命に。」と鎌足は静かにつぶやき、「私は私の立場で成すべき事を熟慮を重ねてやってきた。誰に何と言われようが私の使命としてやってきたんだ。」と不比等はハッキリ言うのです。パソコンに向かって小著『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』の原稿執筆中のことです。 ◆この藤原親子は元「中臣(なかとみ)」であり、ルーツは鳴門市木津(きづ)辺りから板野(伊太乃)郡登美谷(とみのたに)・中登美(なかとみ)・東中登美(ひがしなかとみ)・西中登美(にしなかとみ)を経て奈太(なだ:灘)※1に至る長須(ながす)の支配者、長(なが)の大人(うし)「登美比古(とみびこ)」で「登美長須根比古(とみのながすねひこ)」とも言います※2。 (後世の鎌足はここの生まれで元々「中登美鎌子(なかとみのかまこ)」と称する登美族の一人で「中臣」の表記は後世の当て字です※3。)
◆宿敵、倭の大王「神倭伊波禮毘古(かむやまといはれびこ)命」(のちの神武天皇)は、浪速(なみはや)の渡(わたり)※4を北上した所で「登美長須根比古」と主導権を争う激しい戦いを繰り広げましたが、西の阿波市(旧阿波町)方面から援軍を率いた「邇藝速日(にぎはやひ)命」が駆けつけて「神倭伊波禮毘古命」軍の勝利となりました。 ◆面白いことに「登美長須根比古」の妹「登美夜比売(とみやひめ)」が邇藝速日命の后となって二人の子孫が邇藝速日命の神別を名乗るのですが、邇藝速日命の五世「伊加賀志男(いかがしお)命」が「崇神天皇」の御宇(ぎょうう)に神祇伯(しんぎはく)として「倭大国魂」・「倭大国敷」二座を祀って以来この血脈にある人は神官・祢宜(ねぎ)として用いられるようになりました。 ◆第34代「舒明天皇」の御宇になると「中臣連祢宜」や「中臣連」がぽつぽつと登場してきますが、「中登美鎌子」も勿論この一族の一人であったと思われます※5。祭祀氏族として頭角を現してきたのもおそらくはこの頃からではなかったでしょうか。
◆この祭祀氏族「中臣氏」について私が問題意識を持っているのは、①一つ、『古事記』天の石屋戸初出のくだりで、なぜ何の前書きもなく唐突に中臣連等の祖(おや)の「天児屋(あめのこやね)命」と忌部首等の祖の「布刀玉(ふとだま)命」が並んで書かれているのかということ、②二つ、中臣氏と忌部氏の祭祀の違いは何かということです。
①「‥‥天児屋(あめのこやね)命、布刀玉(ふとだま)命を召して、天(あめ)の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内抜(うつぬ)きに抜きて、天の香山の天の朱櫻(ははか)を取りて、占合(うらな)ひまかなはしめて、天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて、‥‥ ◇此の種々(くさぐさ)の物は、布刀玉命太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて、天児屋命太詔戸(ふとのりと)言禱(ごとほ)き白して、‥‥」
◆初めての記述で誰それの祖(おや)であるとか古事記主要神であれば必ずや記される注書きなどがなく、かと思えば天孫降臨条冒頭ではいきなり天児屋命と布刀玉命が天宇受売(あめのうずめ)命、伊斯許理度売(いしこりどめ)命、玉祖(たまのや)命とともに五伴(いつとも:五つの部曲(かきべ))の緒(を:族長)として邇邇芸(ににぎ)命に付き従って天降りしたと記され、続いてようやく天児屋命は中臣連等の祖(おや)、布刀玉命は忌部首等の祖であると注書されているのです。以後、古事記で天児屋命も布刀玉命も出て来なくなります。 ◆これはおそらく、平城遷都前から政治の実権を握った為政者藤原不比等がその祖天児屋命とともに敢えて布刀玉命を並べ記すことで己が氏族の祖が目立ち過ぎるのを回避するとともに、忌部氏からの憤懣※6を少しでも和らげたかったからではないかと思われます。
◆②中臣神道と忌部神道の違いについては、先覚折口信夫(国語学者・民俗学者・歌人)が多角的に論じておられます。前提として折口は天照大神を三種に分けて論じ、阿波における天照大神は「水の女神に属する」として最も威力ある神霊を示唆していますが、「(古代における)歴代の都は大体に水と縁が深く、飛鳥以降平安遷都頃までの帝都の移動を概観すると、飛鳥から近江へ、また飛鳥に戻り、今度は藤井という泉のある藤原の地に移り、次に奈良から恭仁(くに)へ、恭仁から難波へ、更に奈良へ遷り、最後に山城へ向こうて此処に都を定めたということになっている。※7」 ◆この記述は平城京遷都以前の阿波にそのまま当てはまるのですが、「藤井という泉のある藤原の地」とは傍らに藤の花のある清い水の湧き出る地ということでしょう。吉野川市鴨島町の「藤井寺」は今も藤の花で有名で境内には池がありすぐ傍には小川が流れています。※8
◆折口はまた説いています。「(天の羽衣)は後世、禊ぎ・湯沐みの時、湯や水の中で解きさける物忌みの布と思われる。誰一人解き方知らぬ神秘の結び方でその布を結び固め、神となる御躬(みきゅう)の霊結びを奉仕する巫女があった。‥‥この沐浴の聖職に与るのは、平安以前には“中臣女”の為事となった期間があったらしい。宮廷に占め得た藤原氏の権勢も、その氏女なる藤原女の天の羽衣に触れる機会が多くなったからである。‥‥藤原氏の女の水の神に縁のあったことを見せているのである。‥‥藤井が原を改めて藤原としたのも、井の水を中心としたからである。‥‥藤原の地名も、家名も、水を扱う土地・家筋としての称えである。※9」 ◆このようにのちの藤原氏、中臣氏一族は由来、水に縁が深く水のことを司る家筋であり、水の魂によって生活をしている家筋なのです。※10
◆では、中臣神道と忌部神道の本質的な違いは何なのでしょうか。折口曰く、「一言に言えば、中臣氏は神の形、忌部氏は精霊の形を持っている。‥‥中臣氏は天子の代理として神事を取り扱い、忌部氏は“いはひごと”をして一種の演芸をする。それが神楽となると、中臣のする為事は人長(にんじょう)が行い、忌部の役は才男(ざえのおのこ)が行うことになり、人長が神に、才男が精霊になって行ったのである。」※11
◆また曰く、「延喜式の祝詞には中臣の祝詞と忌部の祝詞の二つの祝詞が入っている。中臣の祝詞は形式が大きく表現も新しく全体に明るい感じを与える。忌部の祝詞は形式が小さく表現が古くて全体から言うて暗い感じがする。この祝詞の形式と用いられる機会との相違が、遂には中臣・忌部両氏の勢力、社会的位置の消長にまで影響したのであって、宮廷において“のりと”を唱えるという役目こそ同じであったが、中臣の祝詞は公式、忌部の祝詞は非公式という関係から忌部氏の社会的・政治的位置までが次第次第に下って行くようになった‥‥」※12
◆重ねて曰く「“みこともち”とはお言葉を伝達するものの意味であるが、最高位の“みこともち”は天皇陛下であらせられ、天神の“みこともち”でおいであそばすのであるが、後世天皇陛下の御代わりとしての“みこともち”ができ、それが中臣氏である。‥‥古語拾遺は中臣・斎部の同格説を唱えているが、私は元来あの古語拾遺にはあまり重きを置いていない。‥‥そもそも中臣氏と斎部氏との社会的位置が同じであったということからして誤りである。斎部氏は最初から決して“みこともち”ではなかったのである。いわば山祇(やまつみ)の“みこともち”ということになりそうに思う。ことほぎの基礎になるいわいごとを伝誦する部曲(かきべ)および伴造(とものみやつこ)であったので、天子の代宣者とは言えないのである。‥‥」※13
◆このような立ち位置もあり中臣一族は鎌足・不比等を生み、この親子の才によって天皇家を支える一大氏族として朝廷でその中枢を担い、やがて奈良大倭へと天皇を導くのですが、この一文をしたためていて気付いたことがありました。 ◆何で大倭を“奈良”と呼ぶようになったのか、かねての疑問、それは中臣一族が水を司る家筋であったからこそ、水とは無縁の新天地に故里の「水うるわしき豊かな大地」“奈良”※14と皇祖の地名を付けたのではないでしょうか。
以 上
※1 宮中にて行われる大切な神事「灘の祭」はこの地方より起こったのです。(『道は阿波より始まる』(その三)42頁)参照
※2 『道は阿波より始まる』(その一)111頁・(その二)21頁・(その三)108~110頁、『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ4(21頁:鳴門西PAすぐ南には「中臣大鳥神社」(消滅)が、板野町大寺高樹には「大鳥神社」跡(現、「高樹公会堂」)が残っています。)参照
※3 同(その三)108頁参照
※4 吉野川下流域と旧吉野川に挟まれた地域を中心とした地は古代海岸線の入り込んだ海域でした。 ※5 『道は阿波より始まる』(その三)110頁参照
※6 平安時代初期大同2年(807年)、忌部氏の末裔斎部広成(いんべのひろなり)によって『古語拾遺(こごしゅうい)』が編纂され、公式の歴史書記紀から漏れてしまった忌部一族に伝わる古くからの伝承を拾い集めて補うという名目で斎部氏の正当性を朝廷に愁訴するために執筆され、当時の平城天皇に献上されました。
※7 『折口信夫全集』(第十二巻381頁:中央公論社)参照
※8 『万葉集』巻一52番:藤原宮の御井の歌には「藤井が原」の文言があり、頭注に「藤原のこと」とし、「藤井(傍らに藤のある意か)という井のあたりの原の意」とあります。
※9 折口信夫著『古代研究Ⅰ民俗学篇1』109~111頁(角川ソフィア文庫)参照
※10 同 『 同 Ⅲ民俗学篇3』230頁( 同 )参照
※11 『折口信夫全集』(第十二巻408~410頁:中央公論社)参照。なお「人長」とは宮中で行う御神楽において舞を舞う人々のリーダーのことで、「才男」とは歌や演芸をする人をさす古語
※12 『 同 』( 同 354~357頁: 同 )参照
※13 折口信夫著『古代研究Ⅲ民俗学篇3』170・171頁(角川ソフィア文庫)参照
※14 古代阿波では水に関わることを「柰」・「那」の文字で表し、豊かな水の風景、その風光明媚さを称えて「奈良」と呼びました。
小著『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ27(111頁以下)参照
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③ 小著『古代史入門』238~248頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ4(20頁以下)、テーマ21(82頁以下)、テーマ22(86頁以下)、テーマ23(90頁以下)参照(Amazon電子書籍・印刷本)
※1 高越山信仰の基にあった「伊邪那美命の神陵」の上に、「木綿・麻を作る忌部(日鷲)の祭祀する山」の意味が被さり、これ が「日鷲の山」(比婆の山)とも、「木綿麻山」とも呼ばれるようになったものと思われます。(笹田孝至論考 「阿波に秘められた 古代史の謎」(財)京屋社会福祉事業団『大嘗祭』所収365頁参照)
※2 同『大嘗祭』所収365頁)参照
※3 岩利大閑著『道は阿波より始まる』(その二)14頁参照
※4 同(その三)99頁参照
※5 新撰姓氏録に「久米臣」・「久米朝臣」・「久米直」が記載されており、「久米臣」は御間津比古天皇の皇子、天帯比古国押人 命の子孫、「久米朝臣」は武内宿禰の五世孫蘇我稲目宿禰の子孫、「久米直」は天日鷲命の後、味日命の子孫とあり、いずれ も神別・皇別の姓氏となっています。(同(その二)22頁参照)
※6 第七代孝霊天皇の皇子若建比古命の孫御友別(みともわけ)命
※7 同(その二)52頁参照
※8 同(その三)86頁参照
※9 神事における供え物を入れる器、またはその供え物自体を指す言葉で、平安時代の法令集「延喜式(えんぎしき)」(927年) に具体的な定めがありますが、阿波国を中心に置いた形で定められており、阿波国を除いては行事そのものが行えない規定 になっていて、由加物を貢進されるのは阿波・淡路・紀伊の三国のみと定められています。
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① 小著『古代史入門』75頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ28(115頁以下)、テーマ30(130頁以下)参照(Amazon電子書籍・印刷本)
※1 宮中にて行われる大切な神事「灘の祭」はこの地方より起こったのです。(『道は阿波より始まる』(その三)42頁)参照
※2 『道は阿波より始まる』(その一)111頁・(その二)21頁・(その三)108~110頁、『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ4(21頁:鳴門西PAすぐ南には「中臣大鳥神社」(消滅)が、板野町大寺高樹には「大鳥神社」跡(現、「高樹公会堂」)が残っています。)参照
※3 同(その三)108頁参照
※4 吉野川下流域と旧吉野川に挟まれた地域を中心とした地は古代海岸線の入り込んだ海域でした。
※5 『道は阿波より始まる』(その三)110頁参照
※6 平安時代初期大同2年(807年)、忌部氏の末裔斎部広成(いんべのひろなり)によって『古語拾遺(こごしゅうい)』が編纂され、公式の歴史書記紀から漏れてしまった忌部一族に伝わる古くからの伝承を拾い集めて補うという名目で斎部氏の正当性を朝廷に愁訴するために執筆され、当時の平城天皇に献上されました。
※7 『折口信夫全集』(第十二巻381頁:中央公論社)参照
※8 『万葉集』巻一52番:藤原宮の御井の歌には「藤井が原」の文言があり、頭注に「藤原のこと」とし、「藤井(傍らに藤のある意か)という井のあたりの原の意」とあります。
※9 折口信夫著『古代研究Ⅰ民俗学篇1』109~111頁(角川ソフィア文庫)参照
※10 同 『 同 Ⅲ民俗学篇3』230頁( 同 )参照
※11 『折口信夫全集』(第十二巻408~410頁:中央公論社)参照。なお「人長」とは宮中で行う御神楽において舞を舞う人々のリーダーのことで、「才男」とは歌や演芸をする人をさす古語
※12 『 同 』( 同 354~357頁: 同 )参照
※13 折口信夫著『古代研究Ⅲ民俗学篇3』170・171頁(角川ソフィア文庫)参照
※14 古代阿波では水に関わることを「柰」・「那」の文字で表し、豊かな水の風景、その風光明媚さを称えて「奈良」と呼びました。小著『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ27(111頁以下)参照
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① 小著『古代史入門』238~248頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ4(20頁以下)、テーマ21(82頁以下)、テーマ22(86頁以下)、テーマ23(90頁以下)参照(Amazon電子書籍・印刷本)
▲「四国霊場第十一番札所藤井寺」(吉野川市鴨島町飯尾)。
【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】 [問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp |
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【シーズン2】9話目【完】。
次回は・・・
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記事公開日は2026年9月1日(木)。乞うご期待










