2026/09/01 01:00
あわわ編集部
邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】10話目/「秦氏」と阿波の関係
古代史を通して徳島の魅力を再発見するために連載スタートした「邪馬台国は阿波だった!? シーズン2」。編集担当の肌感ですが、じわりじわりと認知度もあがってきてます。執筆者の皆様には多忙の中、原稿アップありがとうございます。
ということで!
この連載を読みながら邪馬台国阿波説に誇りを持ち、畿内説や九州説に負けず劣らず盛り上げていきましょう。
この企画の実はすごいところ
「邪馬台国は阿波だった」と説を唱える人たちでも詳細の各論では完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。
そこでタウン誌としてできることは何かと考え、それぞれの説を一同に掲載するまとめ記事を企画しました。1つのテーマについて、それぞれが自身の論を展開していく・・・。説を横串にしたことで、微妙な違いを比較することが可能に。
ここが実はすごいところなんです。そんな無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者のみなさんには頭が下がります。それも一重に邪馬台国阿波説を今以上に拡散していこうという想いから実現できました。
※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、本記事の内容は著作権法により保護されています。無断での転載、複製、改変、及び二次利用は固く禁じております。記事自体のシェアは大歓迎です。
邪馬台国は阿波だった!?【シーズン2】10話目/「秦氏」と阿波の関係
【通説】
秦氏とは
古代日本に渡来した有力な渡来系氏族で、政治・経済・宗教の三分野で国家形成に大きな影響を与えた一族です。
秦氏の出自と渡来
秦氏は「秦」を氏とする氏族で、平安時代の『新撰姓氏録』では秦の始皇帝の末裔とされますが、実際には百済系氏族であるとする説が有力です。古代日本には朝鮮半島や大陸から渡来した人々が継続的に移住しており、秦氏はその中でも特に大きな勢力を持った渡来人集団と考えられています。『日本書紀』によれば、応神天皇の時代に弓月君が率いる百済の民が日本に渡来し、秦氏の祖先とされる伝承があります。
秦酒公がウヅマサの姓を与えられる
弓月君に続いて歴史に現れる秦氏の人物は秦酒公である。『日本書紀』によれば、雄略天皇15年(471年)に秦人が散り散りになって秦造の思うままにならないことを秦酒公が嘆いたので、天皇の詔によって彼に秦の民が与えられた。酒公は180種の勝部を率いて庸調の絹・縑を朝廷に奉献してうずたかく積み上げたことから「禹豆麻佐(うづまさ)」という姓を与えられたとされる。秦氏の本拠地であった山城国葛野郡(現・京都市右京区)には、現在も太秦(うずまさ)の地名が残る。同様の逸話が『古語拾遺』『新撰姓氏録』にもある。しかしこの逸話には庸調という後世の語などが見えることから、太秦という地名の由来を付会したものだとされている。津田左右吉は部民を統括する伴造にこの時期秦氏が任命されたことを示すものだと解釈したが、関晃は翌年条に漢氏を伴造にしたという話があることからその対抗上時代を遡らせたものである可能性を指摘している。秦氏の本拠地は山城国葛野郡太秦(現在の京都市右京区)で、広隆寺の建立など宗教的活動でも知られます。全国34カ国・89郡に分布し、農耕・養蚕・機織・貢納などの経済活動に深く関与していたことが記録から確認されています。6世紀前半には、秦氏配下の民を含めて約17万人の人口を抱え、当時の日本人口の約5%に相当する規模を誇ったとされます。
政治・経済・宗教への影響
秦氏は表舞台に立たずとも、政治の基層を支え、経済的にも国家の屋台骨を支えた存在です。宗教面では全国各地の神社建立に関与し、日本の神社神道の基礎を築いたと考えられています。
秦氏の歴史的意義
秦氏は渡来系氏族として、日本列島における国家形成や文化発展に大きく寄与しました。政治・経済・宗教の三領域で影響力を持ち、京都太秦を中心に広範囲に勢力を展開したことから、古代日本最大級の氏族の一つと評価されています。
その出自や渡来の経路には諸説がありますが、いずれにせよ日本古代史における重要な渡来系豪族であったことは確かです。
▲蚕の社三柱鳥居。
●ANYA氏の説(今回は休載)
●中年タケシ氏の説
●オキタリュウイチ氏の説(今回は休載)
●百万平氏の説
●シン・きーちゃん氏の説
●ヤマモトタケルノミコト氏の説
●藤井榮氏の説
●山内雄二氏の説
ANYA氏の説/
ANYA氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。
【執筆/ANYA(アンヤ)】 [問い合わせ先]anyautb@gmail.com |
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中年タケシ氏の説/歴史の織り目を解き明かす――古代阿波を駆け抜けた「秦氏」の影
こんにちは、中年タケシです。日本の古代史を陰で支えた巨大な渡来系氏族、それが秦氏(はたうじ)です。
秦氏といえば、京都・太秦を本拠とし、伏見稲荷大社や松尾大社の創建に関わった氏族として知られています。しかし、その活動は山城だけにとどまらず、四国・阿波、とりわけ吉野川流域にも及んでいた可能性があります。秦氏は、養蚕・製糸・織物、土木・治水、農業開発、金属加工、物流・財政など、多様な先進技術と高い経営能力を備えた渡来系集団として知られ、古代日本の殖産興業を支えた代表的な技術者集団の一つと考えられています。なかでも彼らを象徴するのが「機織(はたおり)」の技術です。「秦(ハタ)」という氏名と「機(はた)」という言葉の関係については諸説ありますが、古くから両者の結び付きが意識されてきました。この高度な織物技術が、阿波の豊かな自然環境と結び付いたとき、新たな産業文化が花開いたのではないでしょうか。
吉野川南岸に広がる麻植(おえ)郡一帯は、古くから麻や梶(カジノキ)の繊維を利用した「木綿(ゆう)」の生産地として知られていました。その地域には、かつて飯尾に鎮座していたと伝わる呉羽神社がありました。「呉羽(くれは)」の名は、『記紀』に登場する呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)と呼ばれる渡来の織工を連想させます。呉織とは、中国大陸から伝えられた高度な絹織技術を担った人々を指すとされ、その技術の普及には、織物生産を得意とした秦氏が何らかの役割を果たした可能性も考えられています。一方、阿波忌部が古くから担ってきたのは、神事に用いられる神聖な麻布「麁服」を織る文化でした。
もし、この在来の麻織文化に、秦氏や渡来系工人のもたらした高度な絹織技術や織機・染色技術が加わったとすれば、阿波の繊維産業は大きく発展したことでしょう。吉野川流域の肥沃な沖積地、豊富な伏流水、温暖な気候は、桑の栽培や養蚕だけでなく、古くから染料植物の栽培にも適した環境でした。とりわけ藍(タデアイ)は古代から染料として利用されていたと考えられ、織物文化と染色技術は切り離せない関係にありました。秦氏や渡来系工人がもたらした先進的な織布・染色技術と、阿波忌部が受け継いできた麻織文化、そして吉野川流域の豊かな自然条件が融合したことで、阿波には高品質な布づくりの基盤が築かれていったのかもしれません。やがて時代が下ると、阿波は藍の一大産地として全国に名を馳せます。近世の「阿波藍」は全国市場を席巻するほどの一大産業へと発展しましたが、その背景には、古代から連綿と受け継がれてきた繊維加工や染色の技術的蓄積があった可能性も考えられます。
そのことを象徴するのが、天皇即位の最高祭祀である大嘗祭です。阿波忌部が調進する麁服は、古代以来、宮中祭祀に欠かせない神聖な祭服として重視されました。その背景には、阿波が長年培ってきた卓越した織布技術と、国家から特別視されるほどの品質があったのでしょう。一方で、古墳時代以降の渡来系集団との交流により、織機や染色、加工技術の一部が改良・発展した可能性も十分考えられます。京都の華やかな歴史の陰に語られる秦氏。その足跡を吉野川のほとりに探るとき、私たちは1500年前、東アジアからもたらされた先進技術と、それを受け入れ独自の文化へと昇華させた古代阿波の姿を思い描くことができます。そして、その技術の系譜は、神に捧げる麁服の織布から、人々の暮らしを彩る藍染へと受け継がれ、やがて「藍の国・阿波」という日本屈指の染織文化を生み出す礎になったのかもしれません。かつて呉羽神社が鎮座していた地に立てば、そこには単なる一地方の歴史ではなく、大陸と日本列島を結んだ技術交流の壮大なドラマが、今も静かに息づいているように感じられるのです。
▲鴨島町の史跡・文化財の図。
【執筆/中年タケシ】 [問い合わせ先]なし |
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オキタリュウイチ氏の説/
オキタ氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。
【執筆/オキタリュウイチ】 [問い合わせ先]office@deepbranding.jp |
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百万平氏の説/『阿波と秦氏を結ぶ、信仰と技術の道』
京都を代表する渡来系氏族・秦氏。その足跡をたどると、意外にも阿波とのつながりが見えてきます。
その一つが、京都最古級の神社・松尾大社です。境内には徳島県で産出される「阿波青石」が使われており、古くから京都と阿波を結ぶ交流をうかがわせます。吉野川から海へ出て紀伊水道を渡れば、大阪湾、そして淀川を経て京都へ至ります。古代の人々にとって、海と川は都と地方を結ぶ重要な交通路でした。
秦氏は土木や灌漑、養蚕、機織りに優れた技術を持ち、京都・桂川流域の開発に大きく貢献したと伝えられています。一方、阿波は古くから麻の産地として知られ、祭祀を担った忌部氏が神事に用いる麻布を朝廷へ納めていました。その象徴が、大嘗祭で天皇に供えられる「麁服(あらたえ)」です。対となる絹の「和妙(にぎたえ)」とともに、麻と絹は古代国家の祭祀を支える特別な織物でした。麻を育んだ阿波と、絹文化の発展に大きく貢献した秦氏。この対比は、両者の役割の違いと、日本の織物文化の広がりを感じさせます。
また、秦氏ゆかりとされる伏見稲荷大社の稲荷信仰は、五穀豊穣を願う信仰として発展しました。そのルーツには食物神への信仰があるとも考えられています。阿波には食物神・オオゲツヒメを祀る伝承が数多く残り、稲荷信仰との共通性を指摘する説もあります。ただし、両者を直接結び付ける史料はなく、あくまで信仰史の中で語られる興味深い見方の一つです。
確かな史実だけでは語り尽くせない古代の交流。阿波から運ばれた石、祭祀を支えた麻、都へ広まった絹、そして海と川を行き交った技術と信仰。それぞれを一本の線で結んでみると、京都と阿波は想像以上に深い縁で結ばれていたのかもしれません。
▲神山町の松尾神社。
【執筆/百万平(ひゃくまんぺい)】 沖縄在住 観光業に携わる傍ら、趣味で古代史をテーマにした漫画やブログ、作曲を細々とおこなう。好きな都道府県は徳島県。【古代史経歴】●2020年、日本の古代史に興味を持つ。●2021年、出張の合間を縫って各地の神社巡りを開始。●2023年、阿波徳島の重要性に気づき魅了される。同年、Instagramで阿波古代史をテーマにした漫画『籠の中の卑弥呼』連載開始。ヤマモトタケルノミコトさんにいつかお会いすることを夢見る。●2024年、ヤマモトタケルノミコト氏のラジオに出演し夢叶う。 [問い合わせ先]なし |
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シン・きーちゃん氏の説/「京都の稲荷・太秦」を作った一族が、実は徳島にもいた!?米の荷札に残された渡来人の名前
お元気様です🫡
「太秦」「伏見稲荷」「松尾大社」——これらに深く関わった渡来系氏族・秦氏。京都だけの話だと思っていませんか?実はその名前、徳島にも残っていたんです。しかも、奈良の都へ送られた"米の荷札"に、ひっそりと。秦氏は、養蚕・機織り・治水といった新しい技術を伝えた渡来系氏族。『日本書紀』には、秦氏が絹を朝廃に献上し、うず高く積まれたことから「太秦(禹豆麻佐)」の名を賣ったという説話が残っています。伏見稲荷大社を祭ったのも、松尾大社の社殿を初めて造営したのも秦氏だったとされ、京都のあちこちに今も足跡が残っているんです。
では徳島はどうか。平城宮跡から出土した荷札木簡には、こう記されています。
「阿波国板野郡井隣郷 秦人豊日 白米五斗」。
現在の藍住町周辺から都へ送られた米の荷札に、秦人豊日という人物名が残っていたのです。さらに阿波国府関連の木簡にも「秦人部大宅」「秦人部人麻呂」の名が見え、板野郡田上郷(現・阿波市土成町周辺)の戸籍断簡には、秦氏・漢人・服部・録部といった、織物生産に関わる氏族の名も並びます。
ここからは私の妙想ですが——。
徳島は本当に"地方"だったのでしょうか。秦氏・漢人・服部・録部・忌部、これだけの渡来系氏族の名が並ぶということは、徳島は渡来系の技術・祭祀・織物・米の流通が交差する場所だった可能性があります。麻だけの国ではなく、神に捧げる忌部の麻、都に納める秦氏の絹、服部の機織り、録部の高級織物。吉野川流域には、古代の"繊維コンビナート"のような景色が広がっていたのかもしれません。
秦氏系の痕跡が見える井隣郷・殖栗郷・田上郷は、いずれも吉野川流域や国府周辺。つまり徳島の秦氏系集団は、山奥の神秘的な一族ではなく、吉野川流域の農業・織物・国府行政と関わる"生産地帯の人々"だったのではないでしょうか。ただしこれは奈良・平安期の史料の話。邪馬台国の時代までそのまま遡れるわけではありません。それでも——少なくとも古代の徳島が、中央の生産ネットワークにしっかり組み込まれていたことは間違いなさそうです。この土台をどこまで古い時代に遡れるのか、それが阿波古代史の次の沼です。
一緒に歴史沼にハマりましょう!
▲秦氏、実は徳島にもいた。
【執筆/きー(Key)】 [問い合わせ先]history.key21@gmail.com |
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ヤマモトタケルノミコト氏の説/秦氏とは何者でしょうか?
日本古代史の中でも最も伝説が多い実態がつかみづらい国際色豊かな氏族として知られています。果たして何回に分けて阿波(倭国)に来たのでしょうか。 『日本書紀』や『新撰姓氏録』では、その祖先を中国の秦王朝に結び付ける伝承が記されており、朝鮮半島を経由して日本へ渡来したとされています。一方で、その出自については、中央アジアやシルクロード、西アジアとの交流を背景に考える研究やイスラエルの部族ユダヤとも言われ、さまざまな学説が存在しています。当時の東アジアは、陸路ではシルクロード、海路では東シナ海を結ぶ交易ネットワークによって、多くの人・技術・文化が行き交う「世界」で、秦氏も、そうした国際的な交流の中で日本へ戻ってきた一族であり、技術者集団・文化集団:祭祀集団であった可能性があります。
ここからは一つの仮説です。 阿波古代史の視点から見ると、秦氏は日本列島へ渡来した後、まず四国・阿波に上陸したのではないかと考えていきます。阿波は古くから黒潮に乗ると到着しやすく、阿波の海神族が広く世界を股にかけて航海していたのは有名です。そこで私の勝手な妄想で色々書いてみます。ご了承くださいませ(笑)。
(1) 秦河勝氏について。
聖徳太子の側近で、ミスター秦氏といえる彼の伝承は多く聞きます。阿波では聖徳太子に命じられています。救世山峰薬師縁起に、「以乃山馬峰に薬師如来を作らしめ、救世山峰薬師を開山。後々、佛教を志す者 必ずこの霊地を巡礼。弘法大師、峰薬師にて修法し真言密教を興すと」簡単に言うと、聖徳太子に言われて眉山の峰に秦河勝が救世山峰薬師を開いて、空海が修行したと。そして一説では、馬小屋で産まれた聖徳太子=キリスト。秦河勝=モーセ「河に勝つ」とも言われています。なんてスケールの大きい話(笑)。
(2) 大宜都比売の上一宮大粟神社について。
言わずもがな、古事記の国生みで、阿波は大宜都比売と言われ、徳島を代表する神様で、その粟の御神文の上一宮大粟神社の本殿は赤色です。秦氏系の神社になりますね。大宜都比売=豊受大神=倉稲魂命=八倉比売神=天照大神=卑弥呼とも。もはや呼び名が多すぎて困りますが、阿波の誇る大女神の五穀の神も赤い本殿で、稲荷神社とも関係するとなると益々秦氏系ですね。
(3) そして剣山アーク伝説。
今までは都市伝説で有名な話でしたが、最近は一般の方にも広がっています。今後色々と物語が開示され、時代が変わるのでしょうか。剣山例大祭7月17日に神輿を山に担ぎ上げる。何故この日なのか、京都の祇園祭もメインは7月17日です(そうノアの箱舟がアララト山に到着した日です)。剣山系に磐境神明神社(イスラエル式の遥拝所)があり、木屋平に忌部三木家があり、剣山近くに、天日鷲神や天児屋命が、降臨していた伝承の場所もそれぞれあります。また剣山系・神山・佐那河内あたりが、高天原であり、その下が「出雲」であると。そうです、物語は聖なる山「剣山」よりすべてが始まっています。そこに南イスラエルからアークが持ち込まれていると。では誰が運んだのか? 聖書研究家高根正教氏は、『新約聖書』のヨハネ黙示録と『古事記』を「言霊学」という独自の方法で読み解きました。黙示録第4章に登場する4つの生き物:獅子、牛、人、鷲。これが古事記の「四国はこの島は身ひとつにして面四つあり」という記述と重ねて、四国こそ、4つの顔を持つメルカバ―であり、神の栄光を示す地であり、その中心が剣山であると。伊予之二名島の「伊:(阿波側)」は、手に神聖な杖を持つ象形で「治める」の意味「参考:漢字源」。 弘法大師空海が、四国霊場を開いた理由はアークを守るための結界だという話。平家落人伝説、壇ノ浦の後、安徳天皇と三種の神器が剣山に逃れたという話。そうアーク「聖櫃」はイスラエルの三種の神器を納めるものです。繋がりますね。そして秦氏は渡来ユダ族(景教ネストリウス派)とも言われています。また秦氏が全国に作った「八幡神社:4万社」は秦氏の信じていた聖書の神アメノミナカヌシ=ヤハウェを祀っているとも最近よく耳にしますね。(好きに書きすぎのような(笑))。
(4)余談:秦氏は街づくりのプロ。
江戸時代にオランダが先住民から今のニューヨークの土地を買い取り、街を作る時に、均整のとれた日本の町並みを参考にしたいと、徳川家康に相談があり、家臣の秦高尚(はたたかなお)にその役を命じて送り込み、秦氏は故郷大阪の街をモデルに基盤の整備進めたと。そのため大阪とニューヨークは町並みに共通点が多く、始めていった大阪人はニューヨークで道に迷わないらしいです(笑)。両方とも2つの大きな川に挟まれていて、全ての道が東西南北に走り、大阪は縦の道が「筋」で横の道が「通り」で、ニューヨークも「ストリート」と「アベニュー」。またすばらしい街を作った偉業をたたえ、最後に出来た区にはその名前を付けることになり、一緒に渡米した日本人から“はったん”という愛称でよばれており、“マン”を頭に付け、「マンハッタン」と呼ばれるようになったそうです。大昔の日本で、桓武天皇が遷都する時にも秦氏に都造成(街づくり)をしてもらい平安京が完成して日本の古都京都が、千何百年経った今も続いていますね。
(5)阿波忌部と秦氏について。
阿波忌部氏の麻と、秦氏の絹(養蚕)は古代日本では、天皇の践祚大嘗祭で最重要な「あらたえ」と「にぎたえ」であり、セットで必要です。これは古来より協力・協業していた証拠では。阿波を繊維産業の一大拠点へ押し上げて阿波のつるぎ町の松尾神社や神山の上一宮大粟神社が、京都の松尾大社・伏見稲荷に移されたと推測しています。
阿波には古代から祭祀氏族である忌部氏が存在し、麻の栽培や織物、祭祀文化を担い、秦氏が阿波へ来て、忌部氏と交流・協力したのであれば、先進技術と祭祀文化が融合し、新しい社会基盤が形成されたと考えられます。その成果が農業生産の向上、金属加工技術の発展、交易網の整備につながり、後の倭国の発展を支えたと言えるのでは。秦氏は、その後、瀬戸内海航路を利用して畿内へ進出し、山城国をはじめ各地で灌漑施設や河川整備、養蚕、酒造などを発展させたと伝えられています。このような活動は、古代日本の経済基盤を強化し、ヤマト政権の成立と発展にも大きな影響を与えたと考えられます。ワールドワイドな視点で見ると、秦氏は単なる一族ではなく、古代ユーラシアを横断する文化と技術の流れを日本へ運んだ存在であり、シルクロードから東アジア、そして日本列島へ続く壮大な交流の中で、阿波がその重要な場所となり、各地へ文化を発信する拠点となったと思います。
最後に城北高校同級生、陸上部キャプテンの秦君はビックリするぐらい男前でした。今考えたら間違いなく出戻り組の渡来人の秦一族ですね(笑)。彼に祝福を!
▲秦氏と忌部氏の協業。
【執筆/ヤマモトタケルノミコト】 [問い合わせ先]heartfull80@gmail.com |
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藤井榮氏の説/秦氏(はたうじ)の首長「鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)」
◆今回のテーマ「秦氏とは?」、私も物の本で時折目にするぐらいで日頃あまり考えたことはありません。おそらく他の執筆者の方々も改めていろいろお調べになっていることかと思います。「秦」を氏とする氏族ですが、あるいは秦の始皇帝の末裔、あるいは徐福一族、あるいは新羅系氏族、日本書紀によれば‥‥等々、どうやら4世紀頃から7世紀頃にかけて大陸から渡来した大規模集団のようですが。 ◆ウィキペディアやAIも便利ですが、敢えて距離を置いてあまり他の方が書かないであろうことを書かせていただきます。
◆岩利大閑著『道は阿波より始まる』(その二:22頁)には次のような一文があります。 「鍛人天津麻羅とは冶金技術に秀でた徐福以来、居付いていた秦人の首長と私は考えています」 ◆この見立てが正しいとすれば徳島市郊外多家良町立岩鎮座の「金山神社」右脇の“たたら跡”で製作された鏡が「八咫(やた)鏡」であり、当社に伝存するご神体は鏡を正面に抱いた「金山比古神」の神像で氏子に“金山はん”として尊崇されています。これを裏付けるようにすぐ西隣が「八咫鏡」の名の起こりとなったといわれる「八多(はた)町」です。 ◆この辺りの地名は「金谷」で、近くには「多々羅川」もある我が国冶金技術発祥の地と推定されており、大閑氏指摘の冶金技術を物する秦人集団の居付いた地、その首長が「八咫鏡」製作者「立岩神社」のご祭神鍛人天津麻羅であるということですね。
◆思い出しました、ある話を。昭和51年6月大閑氏をはじめ私が“七人の士”と呼んでいる古代阿波研究会の面々が新人物往来社から刊行した『邪馬壱国は阿波だった』をきっかけに第一次邪馬台国阿波説ブームが起こり全国的に注目されているのを見た当時の朝日新聞徳島支局の記者が宮内庁に電話、「今邪馬台国阿波説ブームでここ徳島は大層盛り上がっていますが、宮内庁はこの状況をどう思いますか。」 ◆電話に出られた当時の宮内庁職員曰く「ああそうですよ、阿波ですよ。ですからご存じですか、徳島市近郊に八多町という地がありますが、そこで作られた鏡が八咫鏡です。」 ◆聴いた記者はビックリ仰天、七人の士の中の一人(医師)にこのことを伝えると、「ほらほうだろう、ほなけんわしらがいつも言よるでないで。」と言われた記者。唖然としたとは先達からお聞きしたウソのような真の話です。 ◆今なら天地がひっくり返っても宮内庁職員がこのようなことを話すことはないでしょうが、これが阿波という地なのです。奈良や出雲など古代阿波人の開拓地では決して聞くことの出来ない皇祖の地ならではの逸話です。
◆閑話休題。秦人が阿波に居付いていたからこそ、後世天津麻羅の子孫であると思われる秦河勝(はたのかわかつ)が小治田御宇(ぎょうう)に醫王善逝(いおうぜんせい)薬師如来十二体を製作したのでしょうし、当地「金谷」の西南の谷が耳なし山に繋がり薬師谷が救世山(ぐぜさん)「峯薬師(みねやくし)」(用明二年七月建立)の末寺、「耳取寺」があった所と推定されるのです。「峯薬師」の東200mほどの所(タタリ谷)には聖徳太子葬場「常厳寺(じょうごんじ)」跡もあります。 ◆「秦氏」が聖徳太子に仕えたとの伝承が多くあることからしても、古代天皇家の傍近く仕え重要な地位を占めていたであろうことがよく分かります。
◆さればこそ古事記編纂の折、秦河勝の祖「秦氏」の首長天津麻羅が上つ巻天の石屋戸のくだりの重要な場面で「八咫鏡」を製作する晴れに浴することになったのではないでしょうか。 ◆今一度そのくだりをご一読いただきながら今回のテーマ執筆の責めを果たしたいと思います。
◆「‥‥是(ここ)を以ちて八百万(やほよろづ)の神、天の安の河原に神集ひ集ひて、高御産巣日(たかみむすひ)神の子、思金(おもひかね)神に思はしめて、常世(とこよ)の長鳴鳥(ながなきどり)を集めて鳴かしめて、天の安河の河上の天の堅石(かたしは)を取り、天の金山の鉄(まがね)を取りて、鍛人天津麻羅(かぬちあまつまら)を求(ま)ぎて、伊斯許理度売(いしこりどめ)命に科(おほ)せて鏡を作らしめ、 ◆玉祖(たまのや)命に科せて八尺(やさか)の勾璁(まがたま)の五百津(いほつ)の御(み)すまるの珠を作らしめて、 ◆天児屋(あめのこやね)命、布刀玉(ふとだま)命を召して、天(あめ)の香山(かぐやま)の真男鹿(まをしか)の肩を内抜(うつぬ)きに抜きて、天の香山の天の朱櫻(ははか)を取りて、占合(うらな)ひまかなはしめて、天の香山の五百津真賢木(いほつまさかき)を根こじにこじて、 ◆上枝(ほつえ)に八尺勾璁の五百津の御すまるの玉を取り著(つ)け、 ◆中枝(なかつえ)に八尺(やた)鏡を取り繋(か)け、 ◆下枝(しづえ)には白丹寸手(しらにきて:白和幣)、青丹寸手(あをにきて:青和幣)を取り垂(し)でて、 ◆此の種々(くさぐさ)の物は、布刀玉命太御幣(ふとみてぐら)と取り持ちて、天児屋命太詔戸(ふとのりと)言禱(ごとほ)き白して、 ◆天手力男神戸の掖(わき)に隠り立ちて、天宇受売(あめのうずめ)命、天の香山の天の日影を手次(たすき)に繋けて、天の真析(まさき)を鬘(かづら)として、天の香山の小竹葉(ささば)を手草(たぐさ)に結ひて、天の石屋戸に槽伏(うけふ)せて蹈(ふ)み轟(とどろ)こし、神懸(かむがか)りして、胸乳(むなち)をかき出で裳緒(もひも)を陰(ほと)に押し垂れき。ここに高天原動(とよ)みて、八百萬の神共に咲(わら)ひき。」
【参照リンク】
①YouTubeチャンネル古代史塾 「天の岩屋戸『八咫鏡』製作地」
② 小著『古代史入門』129・130頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』(Amazon電子書籍・印刷本)
▲秦氏首長「鍛治天津麻羅」。
【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】 [問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp |
藤井榮氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
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山内雄二氏の説/秦氏の祖先が最初に渡来した地、それは「讃岐」
秦氏は、人皇の時代に複数回にわたり日本へ渡来した集団である。その出自については諸説が存在し、なお確定を欠くものの、日本各地に広く根を張った大族として知られる。昭和38年に太田亮が著した『姓氏家系大辞典』は、「秦氏は天下の大姓にして、その氏人の多き事、殆んど他に比なく、その分枝の氏族もまた少なからず。而して上代より今に至るまで、各時代とも、常に相当の勢力を有する事も、他に類例なかるべし。」と評し、古代以来続く秦氏の勢力の大きさを強調している。
秦氏の祖先としては、しばしば「弓月君(ゆづきのきみ)」の名が挙げられる。『日本書紀』によれば、応神天皇の14年に弓月君が百済から来朝し、「自国の民120県を率いて来たが、新羅に邪魔され加羅国に留まっている」と救援を求めたと記されている。天皇は葛城襲津彦(かつらぎのそつひこ)を加羅に派遣するが、3年を経ても決着がつかず帰還もしなかった。そこで16年、天皇は平群木菟(へぐりのつく)等に精兵を授けて再度派遣し、新羅を屈服させ、襲津彦と共に弓月の民を連れ戻ったとされる。このくだりは弓月君が登場する場面として有名であるが、弓月君を秦氏と明記する箇所は見当たらない。一方、『古事記』では、同じく応神天皇の御宇に秦造之祖(はたのみやつこのおや)および漢造之祖(あやのみやつこのおや)が渡来したと簡潔に記されているのみで、弓月君は登場しない。
ただし、815年に編纂された『新撰姓氏録』では、「太秦公宿禰は、秦始皇帝の後裔の融通王(ゆうずうおう)が、応神天皇の14年に来朝し、127県の百姓を率いて帰化す。云々」と記されており、上記『日本書紀』の記述を引用しつつ融通王と弓月君を同一人物としている。これに基づけば、秦氏の遠祖は秦の始皇帝であるとなる。しかし、秦の始皇帝の末裔とする系譜は秦氏の格付けを意図した作為であり、実際には朝鮮系の渡来人ではないかとの懸念も示されている。弓月君という名称が強い印象を与えるため、秦氏の祖先については多様な説が唱えられてきた。古代中国の西域に存在したと云われる弓月国・月氏国・大月氏国・小月氏国、さらには古代ユダヤの支族、ネストリウス派(景教)の教徒など、色々な説が提示されているが、未だ明確な結論には至っていない。
さて、今回の主題である「秦氏と阿波との関係」についてであるが、以下に述べるように、私の調べた限りでは、阿波国よりも讃岐国のほうに秦氏の痕跡が多く認められるように思われる。まず、前述の弓月君が来朝した応神天皇の宮都はどこに所在したのかを確認する必要がある。『日本書紀』によれば、その宮都は難波大隅宮(なにわのおおすみのみや)であるとされる。難波から船出して吉備の実家に帰る妃の兄媛(えひめ)を、宮の高台から見送る際に天皇が詠んだ歌が『日本書紀』に載っており、その中に「淡路島と小豆島が二並びに見える。」という一節がある。通説では、難波大隅宮は現在の大阪市上町台地、すなわち大阪城附近に比定されている。古代には大阪湾に突き出した半島状の台地であった。しかし、地図を見れば明らかなように、大阪湾からは淡路島が眼前に大きく横たわるものの、小豆島は全く見ることができない。さらに、930年代に編纂された『和名抄』によれば、古代に「難波」と称された地名は讃岐国寒川郡(さんがわぐん)難破(なにわ=難波)郷のみであり、現在の香川県さぬき市(旧津田町)周辺に比定される。
往古の難波という地名、並びに応神天皇の難波大隅宮、仁徳天皇の難波高津宮の比定地が讃岐にあるとする根拠については、岩利大閑が昭和60年に著した『道は阿波より始まる』、笹田孝至が平成77年に著した『阿波に秘められた古代史の謎(所収『大嘗祭』)』に詳述されているので、参照されたい。さて、話を秦氏に戻すと、難波大隅宮の応神天皇は、百済から救援を求めて来朝した弓月君の願いに応じ、部将を加羅に派遣して新羅の支配下にあった弓月君の多くの民を開放し、難波へ連れ帰って帰化を認めたとされる。通説では、往古の難波は現在の大阪市に比定されるため、『記紀』に記された応神・仁徳天皇の御宇に秦氏の人力と技術を用いて多くの池や治水工事が行われたのは大阪市内であると理解されてきた。
しかし、往古の難波が『和名抄』に記載される現在の香川県であるならば、応神・仁徳天皇の宮も香川県に所在したことになり、弓月君の民も香川県に移住し、秦氏が当地に根を下ろしたと考えることができる。香川県はため池が非常に多く、治水工事が頻繁に行われたことで有名であり、この点でも秦氏との親和性が高い。『道は阿波より始まる』で岩利大閑は、『日本書紀』天智天皇の記に見える「百済の百姓男女400余人を近江(淡海)国神前郡に住まわせ田を給う」の記述を、香川県長尾町造田(ぞうた)に比定している。造田地区は難波津である津田町の西方に位置し、神前(かんざき)の西隣に広がる広域の地域である。JR高徳線においても、「讃岐津田駅」の次が「神前駅」、さらにその次が「造田駅」であり、地名の連続性が確認できる。また、NPO阿波国古代研究所代表・笹田孝至は、応神天皇の御宇に渡来した秦氏に田地を与えた場所が造田であったと推定しており、秦氏の初期定着地としての可能性を指摘している。
一般に、秦氏の本拠地は山城国葛野郡太秦(うずまさ)であるとされている。「葛野(かどの)」という地名についても、『日本書紀』に見える応神天皇の歌「千葉の葛野を見れば...」の葛野が京都の葛野に比定されてきた。しかし、香川県長尾町前山字葛野が秦氏の最初の本貫地であり、当地の「葛野」という地名が後に京都に移った可能性も考えられる。実際に、平安京右京三条一坊六町の発掘調査では、9世紀前半の井戸から「讃岐国寒川郡 難破郷 秦武成」と墨書された木簡が出土している。この木簡は、讃岐国難破郷に秦氏の存在が記録されていたことを示す直接的な資料であり、秦氏の活動領域が京都に及んでいたことを裏付ける重要な証拠といえる。
古代から中世にかけて秦氏は全国に拡大し大族となったが、その出発点は応神天皇の御宇における讃岐国であった可能性が高いと、私は考えている。
▲造田神社(香川県さぬき市造田)。
▲JR 造田駅。
【執筆/山内雄二(やまうちゆうじ)】 [問い合わせ先]090-1136-7625 |
【シーズン2】10話目【完】。
次回は・・・
「加茂氏」と阿波の関係
記事公開日は2026年10月1日(木)。乞うご期待










