歴史・文化
2026/11/01 01:00
あわわ編集部
邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説


古代史を通して徳島の魅力を再発見するために連載スタートした「邪馬台国は阿波だった!? シーズン2」。編集担当の肌感ですが、じわりじわりと認知度もあがってきてます。執筆者の皆様には多忙の中、原稿アップありがとうございます。
ということで!
この連載を読みながら邪馬台国阿波説に誇りを持ち、畿内説や九州説に負けず劣らず盛り上げていきましょう。

この企画の実はすごいところ
「邪馬台国は阿波だった」と説を唱える人たちでも詳細の各論では完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。
そこでタウン誌としてできることは何かと考え、それぞれの説を一同に掲載するまとめ記事を企画しました。1つのテーマについて、それぞれが自身の論を展開していく・・・。説を横串にしたことで、微妙な違いを比較することが可能に。
ここが実はすごいところなんです。そんな
無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者のみなさんには頭が下がります。それも一重に邪馬台国阿波説を今以上に拡散していこうという想いから実現できました。

※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、
本記事の内容は著作権法により保護されています。無断での転載、複製、改変、及び二次利用は固く禁じております。記事自体のシェアは大歓迎です。

邪馬台国は阿波だった!?【シーズン2】12話目/那佐と羽衣伝説


【通説】

羽衣伝説
有名な話は、『丹後国風土記』逸文(「比治真奈井 奈具社」)に記述がある。各地に伝わる羽衣伝説とは違い、物語の筋が一風変わったものになっている 。逸文によれば、丹後国丹波郡の比治山の山頂にあった麻奈井/真名井の泉で、天女八人が水浴びしていたとき、和奈佐という老夫婦が、一人の天女の羽衣を隠し、恥ずかしがっていた彼女が求めてもなお欺罔を疑って返さず、帰れなくなった天女を養女にした。

天女はたった一杯で万病に効くという酒をつくり、老夫婦と十余年共に暮らした。天女の造る霊酒によって家は豊かに土形富み、土形の里と呼ばれた。比治の里は土形の里の転訛である。その後、老夫は「汝は吾が子ではない」と言い天女を追い出してしまう。老夫婦の残酷な仕打ちを恨んだ天女が自分の心情を「荒塩」のようだと言い残したので、比治の里は荒塩の村とも呼ばれた。天女は慟哭しつつ比治の里を去り、次の歌を詠む。

天の原 降り放け見れば 霞立ち 家路惑ひて 行方知らずも

天女が槻の木に寄りかかって哭いた場所は哭木(なきき)の村と呼ばれた。竹野郡の船木の里に入った天女は「これで私の心は奈具志久(なぐしく)(おだやかに)なった」と言い、天女が留まった村は奈具村と呼ばれた。奈具村には奈具神社が創建され、祀られたこの天女こそ豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)であるとする。

Wikipediaより抜粋

▲蚕の社三柱鳥居。





オキタリュウイチ氏の説/


オキタ氏は、今テーマにつきましてはテーマの内容に鑑み、休載となりました。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説


【執筆/オキタリュウイチ】
オキタリュウイチ ディープ・ブランディング株式会社代表  元真言宗・僧侶 徳島県生まれ。早稲田大学中退。行動経済学に基づく経済心理学を独自の手法でマーケティングに応用し、数々の老舗企業再生等を行う。京都の老舗米屋を2400万円から20億円の売上にするなど、驚異的な成果を生み出す傍ら、同時に社会活動家として、自殺者撲滅や日本財団と共催し障害者の起業支援を行うなど、社会的課題の解決に取り組む。近年は、社団法人「日本神社再生機構」を立ち上げ、滅びゆく日本の神社の再生に従事する。 

[問い合わせ先]office@deepbranding.jp


オキタリュウイチ氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶公式ホームページ






百万平氏の説/『那佐と羽衣伝説』


徳島県南部、海陽町の那佐湾。静かな入り江を眺めていると、ここが遠い古代、海を舞台にした人々の往来の一端だったのではないか――そんな想像をかき立てられます。なぜなら、この「那佐」という地名は、日本を代表する羽衣伝説と、どこか不思議なつながりを持っているからです。羽衣伝説をめぐる日本最古級の文献資料の一つが、8世紀ごろの『丹後国風土記』逸文です。丹後・比治の里では、天女たちが泉で水浴びをしている間に、その一人の羽衣を老夫婦が隠してしまいます。そして、この老夫婦の名こそ「和奈佐(わなさ)」。この「ワナサ」という名が、丹後から遠く離れた阿波にも残されています。

海陽町大里松原に鎮座する延喜式内社「和奈佐意富曽(わなさおうそ)神社」。もとは那佐湾を見下ろす大宮山にあったと伝えられます。神社名の「和奈佐」が、丹後の羽衣伝説に登場する「和奈佐」と重なるのは、なんとも興味深い一致です。さらに『阿波国風土記』逸文には「奈佐の浦」が登場し、その名の由来を「海部は波を奈と云ふ」と説明しています。那佐と海部、そして「波」。この土地が古くから海と深く結びついていたことを感じさせます。播磨にも「和那散(わなさ)」の記録があります。『播磨国風土記』には、履中天皇が阿波国の「和那散(わなさ)」で食べたシジミが、播磨の地で再び登場する話が記されています。阿波の「ワナサ」という地名が、海産物とともに播磨の古代文献に残されているのです。

そして出雲には、さらに気になる神名があります。『出雲国風土記』に登場する「阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへわなさひこ)」です。この神が曳いてきた船が山になったとされ、その山頂には船林神社が鎮座しています。また松江市宍道町には和名佐神社があり、和名佐比古命が阿波から黒曜石を求めて降り立ったとする由緒も残されています。阿波の「那佐」、播磨の「和那散」、出雲の「ワナサ」、丹後の「和奈佐」。さらに出雲の「伊那佐(いなさ)」も気になります。これらが同じ語源だと断定することはできません。しかし、古代の海辺に似た音を持つ地名や神名が広がっていることは、なぜか心に引っかかります。

石見にも「大麻」と「那賀」という接点があります。浜田市三隅町の大麻山神社は古代の石見国那賀郡の式内社。阿波にも大麻と那賀の地名があり、阿波と石見の双方に残る言葉が見えてきます。さらに「玉」に目を向けると、出雲の忌部や玉作りの伝承が浮かび上がります。『古事記』の玉祖命、『日本書紀』に玉作部の遠祖として登場する「豊玉」。そして阿波には「和多津美豊玉比売神社」「天石門別豊玉比売神社」という式内社があります。「豊玉」と「豊玉比売」が無関係とは、どうしても思えません。

ワナサ。
海部。
玉作。
忌部。
大麻。
豊玉。

これらの言葉が、阿波・播磨・出雲・石見・丹後の古い記録の中で、まるでシジミの貝殻のように重なって見えてくるのです。阿波の人々が実際にこれらの土地へ移動したと断定することはできません。ただ、瀬戸内海から日本海へと続く古代の海上交通を考えるうえで、興味深い手がかりではないでしょうか。

天女が羽衣を奪われ、故郷へ帰れなくなったという古い物語。その物語の奥に、海を渡った人々の記憶が重なっているとしたら――。「那佐」という地名は、そんな壮大な古代の物語を考える入口なのかもしれません。最後に、羽衣の「羽」というキーワード。阿波において、実は最も重要な神様に繋がるのでは……と、密かに思ったりしています。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲和奈佐意富曽神社。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲那佐神社。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説


【執筆/百万平(ひゃくまんぺい)】

沖縄在住 観光業に携わる傍ら、趣味で古代史をテーマにした漫画やブログ、作曲を細々とおこなう。好きな都道府県は徳島県。【古代史経歴】●2020年、日本の古代史に興味を持つ。●2021年、出張の合間を縫って各地の神社巡りを開始。●2023年、阿波徳島の重要性に気づき魅了される。同年、Instagramで阿波古代史をテーマにした漫画『籠の中の卑弥呼』連載開始。ヤマモトタケルノミコトさんにいつかお会いすることを夢見る。●2024年、ヤマモトタケルノミコト氏のラジオに出演し夢叶う。

[問い合わせ先]なし


百万平氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・

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シン・きーちゃん氏の説/羽衣を隠した老夫婦は「ワナサ」。徳島・那佐の名が、なぜ丹後の天女伝説に?


お元気様です。徳島県の南の端、海陽町に「那佐湾」という、波のおだやかな静かな入り江があります。

実はこの「ナサ」、とても古い記録に何度も登場するんです。約1300年前の『播磨国風土記』では、履中天皇がシジミを見て「阿波国の和那散(わなさ)で食べた貝ではないか」と語ります。平安時代の『延喜式』には「和奈佐意富曾(わなさおおそ)神社」の名が見え、『阿波国風土記』の逸文には「奈佐の浦は波の音がやまない」「海部(あまべ)は波を奈と言う」と書かれています。

ところが、遠く離れた京都・丹後にも「ワナサ」が現れます。しかも、日本最古級の羽衣伝説の中に。『丹後国風土記』逸文によると、比治山の泉で水浴びをしていた天女の衣を隠したのは、「和奈佐老夫(わなさのおきな)」と「和奈佐老婦(わなさのおみな)」という老夫婦でした。え、徳島のワナサと同じ名前……?

天女は二人の養女になり、病も治るほどのお酒を造って家を豊かにします。ところが追い出され、さまよった末に奈具の村で「豊宇賀能売命(とようかのめのみこと)」という神として祀られるんです。実はワナサは、出雲にもいます。『出雲国風土記』には、船を引いてきた「阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)」という神が登場します。民俗学者の折口信夫は、ワナサを、神を奉じて海を渡り歩いた人々の痕跡ではないかと考えました。

ここからは私の妄想ですが。丹波(丹後)は、記紀では日子坐王(ひこいますのみこ)の子・丹波道主命の土地でもあります。その娘・日葉酢媛(ひばすひめ)は垂仁天皇の皇后になりました。ただ、羽衣伝説に丹波道主は出てきませんし、「ワナサの翁=丹波道主」と書いた史料もありません。「ワナサ」は一人の名前ではなく、海を渡ってきた人たちの呼び名だったのではないか。同じ丹波の地に、王の一族の物語と、ワナサの人々の物語が重なって残ったのかもしれません。

しかも丹後の天女は、お酒で人々を豊かにする女神。『古事記』で阿波の国を表す大宜都比売(おおげつひめ)もまた、食べ物の女神です。羽衣伝説が阿波から渡った、とまでは言えません。けれど「ワナサ」という名前を追うと、阿波・出雲・丹後を結ぶ海の道が、ぼんやりと浮かび上がってきます。那佐湾の波の音は、1300年前の海人たちが聞いた音と同じなのかもしれません。

一緒に歴史沼にハマりましょう!

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲カモは2つあった。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説


【執筆/きー(Key)】
お元気様です🫡 日本神話と日本古代史のロマンに、気づけば毎日どっぷり沼っている きー(Key)です。阿波(徳島)を拠点に、文献(古事記・日本書紀など)と現地(神社・地名・遺跡)の両方から、あれこれ想像して深掘りするのが好き。YouTube「シン・きー歴史沼チャンネル」発信に加え、ツアー企画/現地ロケ/ライブ配信/講演もしています。一緒に歴史沼にハマりましょう!🗝️

[問い合わせ先]history.key21@gmail.com


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▶▶シン・きー歴史沼チャンネル(YouTube)
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ヤマモトタケルノミコト氏の説/「天女降臨」阿波から丹後、そして伊勢へ


羽衣伝説の原点は阿波だったのか。アワキヘノオキナとトヨウケ、天女が残した古代日本の記憶。日本各地に残る美しくも謎めいた「羽衣伝説」この伝説の奥深くには、日本という国が形づくられていった時代の「失われた記憶」が隠されているのかもしれません。その謎を解く鍵の一つが、古代阿波に存在したと伝わる「アワキヘノオキナ」と、食物と豊穣を司る女神「トヨウケ」であれば面白いですね。

 『丹後国風土記』逸文には、丹後国比治の里に八人の天女が舞い降りたという伝説が記されています。天女たちが水浴びをしている間、老夫婦が一人の天女の羽衣を隠してしまう。天へ帰る術を失った天女は地上に残り、やがて酒造りによって人々に大きな富と豊かさをもたらした。が、その天女は最後には家を追われる。「私は天の原の者なのに、どうしてこのような目に遭わなければならないのか」天女はさまよい歩き、やがて奈具の地へたどり着く。そして「豊宇賀能売命(トヨウカノメノミコト)」として祀られたと。そして後世、伊勢神宮外宮に鎮座する豊受大神へとつながる存在として語られてきましたと。

ここでいつもの疑問が生まれます。トヨウケの物語は、本当に丹後から始まったのですか?(笑) 。視線を阿波へ向けると、古代で最も重要な食物神、大宜都比売「オオゲツヒメ」の食事を準備したのが、豊受大神という神様ですね。
そして阿波の地で天女を迎える存在として浮かび上がる、アワキヘノオキナ。丹後に伝わる「天女の羽衣伝説」、天女の衣を隠した老夫婦の名が「和奈佐」として登場します。そうです和奈佐意富曽神社は徳島県海陽町にある式内社です。また出雲神話に登場する「国譲り」の舞台として有名な浜は、(いなさ)ですね。和奈佐意富曽神社は文献によっては、「倭」奈佐意富曽神社と書かれている。『出雲国風土記』に登場する当地に関係すると思われる神は、「阿波枳閇 委奈佐 比古命」。この三者の伝承が古代の一つの大きな物語として繋がっているのだとしたら。羽衣とは、単なる空飛ぶ衣ではなく、それは「天の世界」と「地上の世界」を表すのか、海を越えて来た象徴なのか。アワキヘノオキナとは、その新しい文化を持ち込んだ開拓者で、日本中に祭祀や文化を広めた者、あるいは海部(あまべ)の族長の記憶かもしれません。

天より舞い降りたトヨウケ。その天女を迎えたアワキヘノオキナ。そして阿波に根付いたオオゲツヒメの五穀神話。やがて人々は海路を通じて阿波から畿内、さらに丹後へと移動し、神々の物語もまた新天地へ運ばれていき、そして長い歳月をえて、その信仰は伊勢へとつながり、豊受大神は天照大神の御饌を司る神として外宮に鎮座することになる。勿論、現在の歴史学通説ではありませんが、阿波・丹後・伊勢に残る食物神、穀霊信仰、天女伝説を一本の線で結んでみたとき、壮大な古代日本の面白い物語が浮かび上がってきます。

阿波に舞い降りた天女から、日本の「食」と「衣」と「祈り」の物語が始まった。羽衣伝説とは、天空へ帰った天女の物語ではなく、むしろ天(海外)からもたらされた文明を受け取り、日本という国を豊かにしていった人々が、神話という形で未来へ残した「建国以前の記憶」なのかもしれませんね。このテーマは、「アワキヘノオキナ → 天女トヨウケ → オオゲツヒメ → 丹後の羽衣伝説 → 伊勢・豊受大神」と考えていくと非常にドラマチックに感じますね(笑) 皆さんはいかがでしょうか?

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲天女羽衣伝説。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説


【執筆/ヤマモトタケルノミコト】
阿波古代の素晴らしさを広く伝えるために日々走り回っている阿波古代伝道師。とくしまクチコミ大使!(徳島商工会議所)。邪馬台国は阿波だった!ラジオMC(エフエムびざん)。アワテラスラボ 理事長。阿波ヤマト財団事務局長。徳島県 観光審議員。徳島YEG:卑弥呼フェス開催。映画「少女H」撮影上映。徳島JC:映画「佳歩」撮影上映。口ずさめとくしまの歌!開催。

[問い合わせ先]heartfull80@gmail.com


ヤマモトタケルノミコト氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶邪馬台国は阿波だった!(YouTube)
▶▶アワテラス歴史研究所アワラボ(Facebook)
▶▶一般財団法人阿波ヤマト財団(公式HP)






藤井榮氏の説/天女と和奈佐比古(わなさひこ)


◆『 天の原 ふり放け見れば 霞立ち 家路まどひて 行方知らずも 』 かの遣唐留学生(けんとうるがくしょう)阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)望郷の歌『 天の原 ふりさけ見れば 春日なる 三笠の山に 出でし月かも 』を彷彿とさせる『丹後国風土記(逸文)』に「奈具(なぐ)社」として書かれた説話中挿入歌です。 ◆逸文「奈具社」のあらましは、仲間七人とともに比治(ひじ)山の麻奈井(まない)で水浴びをしていた一人の天女が纏っていた羽衣を和奈佐老夫(おきな)・和奈佐老婦(おみな)夫婦に隠されて天に帰れなくなり、老夫婦の下で薬酒造りを能くして家を栄えさせた。 ◆ところが、十年余り過ごしたところで老夫婦から「お前は実の子ではない、出て行け」と追い出されて居場所を失い途方に暮れた天女が空を仰いでこの歌を詠み、各地をさまよった末に「奈具」の村へとたどり着き、村人に向かって「我が心和しくなりぬ」と言ってこの村に留まることになった。それで、村の名も天女を祀った社の名も奈具ということになった、というお話です。

◆ 『こういう伝えだが、この社は酒および食物をつかさどるとせられていた。こういう特徴のあるだけに「わが心なぐしくなりぬ」という境涯に達したことが、餓え衰えてたおれ、そこに転生して食物の霊となられたことを示したと見てよいのである。』 折口信夫がこのように解説した天女こそ豊宇気(とようけ)比売神なのです。

◆豊宇気比売神は、伊邪那岐・伊邪那美二神の御子和久産巣日(わくむすひ)神※1の娘神で食物を掌る女神。この「とよ」は美称の接頭語で、「うけ」は「宜(け)」と同じく食の意です。天下万民の食物を主宰する産巣(むす:生成)の大神で伊勢皇大神宮(内宮)の御饌都(みけつ)神として伊勢の外宮(げくう)に斎(いつ)き祀る神です。 ◆止由気宮(とゆけぐう:外宮)儀式帳※2によれば、第21代雄略天皇の御世、ある晩天皇の夢枕に天照大神が立たれ、「自分一人では不便で食事も安らかにできないので、丹波国比沼真奈井にいる吾が御饌(みけ)の神、等由気(とゆけ)大神を呼び寄せ給え。」と申されたので、天皇は驚き目覚め、丹波国から伊勢の度会(わたらい)の山田の原に遷宮し給い、大宮を建てて鎮座なされたとされています。 

◆天の羽衣伝説の豊宇気比売について興味深い解説をされている書がありますのでご紹介させていただきます。 ◆『「丹後国風土記」にはこの老夫婦の名を和奈佐と出ているが、この豊宇賀能売(とようかのめ)神を宣布(せんぷ)した神人集団の名であったといわれている。「出雲国風土記」に阿波枳閉和奈佐比古(あわきへわなさひこ)命という神名が出ているところから考えるとアワキヘは阿波から来たという意味を示すので、この神人集団の本拠は阿波国であったといえるし、延喜式神名帳には阿波国に「和奈佐意富曾(わなさおおそ)神社」の名も出ている。 ◆これは穀神である豊宇賀能売神を奉ずる和奈佐神人集団の信仰と宣布を示しているし、この神が漂泊したのち奈具の社に止まるということは、この神人集団が回国宣教(かいこくせんきょう)していたことを物語っているといえよう。』(川口謙二編著「日本の神様読み解き事典」柏書房174頁)

◆食物を掌る神といえば誰でも先ず第一に思い浮かべるのは、大宜都(おほげつ)比売神ですね。伊邪那岐・伊邪那美二神の御子で五穀の主宰神とされています。「大」は尊称(美称)で食物を掌る神の意。「宜(け)」は御膳(みけ)のけで、「け」は「うけ」ともいい食物の総称です。 ◆古事記「国生み」条においては「粟國(あはのくに)は大宜都比売と謂う」と書かれており、まさに阿波国を象徴する神様(象徴神)です。「天の石屋戸・五穀の起源」条では、高天原から追放された須佐之男命が大宜都比売神に食物を求めたところ、比売神は鼻・口・尻から種々の食物を出したので命はこれを穢いものと怒り比売神を殺してしまった。すると比売神の死体の頭から蚕、両眼から稲、耳から粟、鼻から小豆、陰部から麦、尻から大豆が生えてきた。そこで神産巣日(かみむすび)神がこれを取って種子とした、と書かれているとおり五穀誕生の神です。 ◆この記述は阿波国より衣布は勿論のこと、主要産物の原種が作り出されて我が国全土に広まったということをはっきりと明記して日本国民に知らしめているのです。今、神山町神領の「上一宮大粟(かみいちのみやおおあわ)神社」で祀られています。

◆このように見てくると、どうやら豊宇気比売神は大宜都比売と同一の阿波神(象徴神)だと考えられるのです。大宜都比売は五穀阿波を象徴する食物神で阿波から全国へ拡がり、その役割の中心を担ったのは全国へ進出して諸国の開拓を行った阿波の海人3部族の一つ県南の加茂(賀茂・鴨)族で、その祖神が須佐之男命、つまり和奈佐比古(わなさひこ)命ということなのです。この和奈佐比古命が諸国で大宜都比売を回国宣教する中、地方によっては五穀(食物)神は豊宇気比売神となったり、また宇迦之御魂(うかのみたま)神※3となったりしたと考えられるのです。

◆折口信夫が『比沼・奈具の神も、阿波から持ち越されたおおげつひめであり、とようかのめであり、外宮の神だとも言えよう。』(「古代研究Ⅰ民俗学篇1」角川ソフィア文庫105頁)と述べているとおりです。 ◆またこうも述べています。『…この天女(豊宇気比売)は同じ山陰道ながら歴史事情のすっかり違ったはずの出雲国でも祀られていた。弥努波(みぬは)というのがこの天女の名である。数箇所にこの名の社があり、また真名井社というのも祀られている。…』、『…この処女(おとめ)神であり髫髪(うない)神であるところのみぬはの神を守って(阿波から)対岸の山陽に渡り、山陰へ廻って行った信仰宣布の径路を考えれば、出雲で阿波枳閉委奈佐比古命というのは、丹後の和奈佐老夫であり、またここ(阿波)の和奈佐意富曾に当たるらしいことが考えられる。すなわち、瑞々しく若やかな神を斎いて、その信仰を広めて廻国した神人が、その仕えた神のさらに尊く神成り給うたのにつれて、そのみずからもこの世を去って後、神と祀られることになるのは、まず順道の信仰だ。出雲および元の国阿波での神名の伝えも、それ故あったわけなのだ。』(「日本文学の発生 序説」角川文庫102~103頁)。まさに“神をはぐくみ申す者”の国、それが“旧国中の旧国”阿波という国なのです。

※1 伊邪那美神が火の神「火之迦具土(ひのかぐつち)神」を産んで陰所(みほと)を焼き伏せていた折、尿(ゆまり)より化生した水の神「弥都波能売(みつはのめ)神」の次に生まれた穀物の生育を司る神で、豊宇気比売神の出現の伏線的存在としての意義があるといわれています。
※2 豊受大神宮に関する祭儀・由来等を記した書(延暦23(804)年)。
※3 古事記では須佐之男命と神大市比売命との間の御子で、神名の由来は、「宇迦」は「うけ」に通じ、「食」と同じで食物の意味。「稲に宿る神秘的な精霊」という意で五穀(食物)を司る神とされる。稲の精霊を神格化した神で多く「稲荷神社」(稲成り)の祭神となっている。日本書紀の「倉稲魂命」と同一神。                                                                  

【参照リンク】

① YouTubeチャンネル古代史塾(「和奈佐比古と五神塔が示す五穀神」:島根~京丹後(前編)・「同」同(後編)、古代史解説 第20回「阿倍仲麻呂 望郷の歌(舞台)」)
②  小著『古代史入門』71~74頁、同 『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ17(68~72頁)参照、両著とも(Amazon電子書籍・印刷本)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲「奈具神社」(京丹後市弥栄町船木奈具)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲「徳島特有の「地神塔」(奈具神社)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲「上一宮大粟神社」(徳島県神山町神領西上角)

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説


【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】
昭和24年美波町(旧日和佐町)生。平成22年徳島県庁退職。平成26年本格的に阿波古代史の勉強を開始、平成27年「邪馬台国阿波説入門講座」(現「阿波古代史講座」)を開講、令和4年2月古代史塾を起こしHPを開設してYouTube動画配信を開始、同年4月『古代史入門』、同6年2月『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』をそれぞれAmazon電子書籍・印刷本出版、現在に至る。

[問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp


藤井榮氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶古代史塾(公式HP)
▶▶古代史塾(YouTube)






山内雄二氏の説/「那佐と羽衣伝説」についての考察


羽衣伝説は世界各地に広く分布し、日本国内にも民話として数多く伝承されている。その中でも、『近江国風土記』逸文と『丹後国風土記』逸文に見える伝承は、公式文書に記録されたものとして最古の例に位置づけられる。とりわけ『近江国風土記』の逸文に記される羽衣伝説は、村の若者が水浴びをする天女の衣を隠し、天に帰れなくなった天女を妻として迎えて子をもうけるが、後年、天女が衣を見つけて天上に帰ってしまうという話である。日本各地に伝わる羽衣伝説の多くは、細部に相違こそあるものの、この物語型に類似しており、基本的な構造を共有している。

一方、後者の『丹後国風土記』逸文に見える羽衣伝説は、独特の展開を示し、ほとんど他に類例をみない。登場する天女は同じであるが、衣を隠すのは若い男ではなく「和奈佐老夫(わなさのおきな)・和奈佐老婦(わなさのおみな)」という老夫婦であり、天女を夫婦の子として迎える点が大きな特徴である。老夫婦は衣をすぐに返すが、天女はそのまま夫婦と共に暮らし、万病に効く銘酒を醸造して大いに家を富ませる。しかし後年、老夫婦は「おまえは実の子ではない。出て行け」と冷酷に言い放ち、天女を追い出してしまう。天女は時を経て天にも帰れなくなり、泣く泣く各地を放浪した末に竹野(たかの)郡の奈具(なぐ)村に至り、そこでようやく安住したと伝えられる。この天女は当地において「豊宇加能売命:とようかのめのみこと」として「式内社・奈具神社」に祀られており、この豊宇加能売命は外宮の祭神・豊受大御神と同神とされる。

天女が最終的に神話の神である豊受大御神となる点も、羽衣伝説としては極めて特異である。しかし、ここでは天女よりも和奈佐の老夫婦に焦点を合わせて、以下に考察することとしたい。物語中の老夫婦は、天女を追い出すという冷酷無残な行為をするが、その名「和名佐」は他の史料にも見える。『出雲国風土記』の意宇郡の条には「和奈佐山」と記され、さらに大原郡の条には「阿波枳閇委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)が曳いて来て据えた船は即ち船岡山なり」と記されている。そして、この船岡山の上には、阿波枳閇委奈佐比古命を祀る船林神社が鎮座している。

『出雲国風土記』の解釈で知られる加藤義成は、昭和32年刊行の『出雲国風土記参究』において次のように述べている。すなわち、「阿波枳閇委奈佐比古命は他の古典に見えない神であるが、神名は粟(阿波)来経和名佐日子命の意で、今の徳島県粟(阿波)の国から来り経巡って、現在の八束郡宍道町の大字和名佐(和奈佐神社)に鎮まられた彦神、すなわち男神である。「委」は上古「倭」に通じて用いられ、。。中略。。。『播磨国風土記』(美嚢郡志深(しじみ)里の条)「阿波国和那散」とあるのによれば、宍道町の和名佐の地名も、この神と共に(阿波から)招来されたものと思われる。」としている。

私も、和奈佐という地名については、「和」は「倭」を意味し、倭(やまと)国すなわち阿波国にある「奈佐」という意であると考えている。『阿波国風土記』の逸文には「奈佐の浦の奈佐と呼ぶ理由は、波の音が止まない浦という意味である。当地の海人族は波のことを奈という」とあり、ここに奈佐(那佐)という地名が登場する。現在でも徳島県海部郡海陽町宍喰浦字那佐という地名が残り、古来より良港として知られる那佐湾も有名である。これらの地名の存続は、奈佐という語が阿波の海人文化に深く根ざした古称であることを示唆している。

そして、阿波国の那佐には『延喜式神名帳』に載る式内社・和奈佐意富曽(わなさおおそ)神社が鎮座している。同社の祭神については諸説があり、その詳細は『式内社調査報告 第23巻 南海道』に整理されている。同書によれば、「和奈佐」は地名の那佐を指し、「意富曽」が祭神にあたるとされる。「おおそ」という読みから、大麻(おおあさ)比古神や大碓(おおうす)命(日本武尊の兄)を祭神とする説、あるいは「和奈佐に居る父祖」の意から、息長田別命が父親の日本武尊を祀ったとする説が挙げられる。また、和奈佐は神功皇后の三韓征伐の帰途に関わる地であるため、神功皇后を祀るという説も存在する。一方、徳島県の歴史家・笠井藍水(1891-1974)は『下灘郷土読本』において祭神を和奈佐毘古命・和奈佐毘売命としているが、これは出雲国風土記に見える和奈佐比古尊を引用したものであり、阿波国式内社の祭神として採用することは難しい。NPO阿波国古代研究所・笹田孝至理事長によれば、「和奈佐」は海人族発祥の地を示し、「意富曽」は「おおそ:大祖」の意であり、この「大祖」とは海原を統治した海人族の祖・須佐之男命を指すという。私もこの説に賛同している。

そうであるならば、出雲国の船林神社に祀られる阿波枳閇委奈佐比古命は、阿波国の和奈佐意富曽神社の祭神とは本質的に関係がなく、むしろ「阿波の和奈佐から来た男が、後世に神格化された存在になった」と考えるのが妥当であろう。『延喜式神名帳・阿波国』に記される那佐の和奈佐意富曽神社、『出雲国風土記』に見える和名佐の和奈佐神社および阿波枳閇委奈佐比古命を祀る船林神社、さらに 『丹後国風土記』に登場する和奈佐老夫婦と羽衣伝説へと、「和奈佐」という地名が神名あるいは人名として伝播したと私は考えている。その背景として、阿波の南海岸から土佐沖を廻り、豊予海峡を北上して日本海に出て、山陰の出雲を経て丹後半島に至る海人族の航路が古代より成立していたことが挙げられる。阿波国南岸と出雲国を結ぶ古代の回路は、潮目の判断が難しい瀬戸内海を通るよりも、海流に乗って南廻りで進む海路のほうが遠回りではあるが、遥かに容易であったと考えられる。海人族は海を生活基盤とする民であり、まして中国山地を縦断するような陸路を選ぶことは事実上ありえない。

ところで、丹後の羽衣伝説に登場する和奈佐老夫婦の「和奈佐」という名は、阿波から出雲を経て伝わった名称であることが前述の考察から明らかとなった。しかし、この和奈佐老夫婦は、天女を追い出す恩知らずで無慈悲な悪人として描かれている。なぜ、このような人物に「和奈佐」という名が付されたのかについて、私は次のような仮説を考えてみた。

『宋書』によれば、478年に倭王武(第21代雄略天皇 418-479)が中国の宋に使者を送り、上奏文を提出している。その中で「東の55国を征服し、西の66国を服属させ、海を渡って北の95国を平定した。」というくだりがある。ここにいう「国」は律令制の国ではなく、古代の集落規模の政治単位を指すと考えられる。通説では、皇都を奈良とみなし、東は関東、西は関西・九州、海を渡って北は朝鮮南部と解釈されている。しかし視点を転じ、倭(阿波)を皇都と仮定すると、東は近畿、西は九州、海を渡って北は山陽・山陰となり、このほうが地理的にも自然である。

話を本題に戻すと、丹後や出雲の民にとって倭(阿波)は都であると同時に、勢力を及ぼす外来の侵略者で支配者でもあったことになる。阿波に対して複雑な感情や反発・恨みが存在したとしても不思議ではない。そして和奈佐は倭の海人族の中心地である。このような背景を踏まえると、『丹後国風土記』の羽衣伝説に登場する老夫婦に「和奈佐」という名が付されたことについては、「被征服者であるこの地の民が、阿波(倭)への反感や皮肉を物語の中に織り込んだのではないか」と考えられないだろうか。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲出雲国・和奈佐神社。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲出雲国・阿波枳閇委奈佐比古命を祀る船林神社。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説


【執筆/山内雄二(やまうちゆうじ)】
昭和27年4月、鳴門市に誕生。小学校1年より徳島市南二軒屋町に居住。大学在学中は、山歩き、ジャズ鑑賞、読書が趣味。卒業後、神戸の会社に就職し神戸市垂水区に居住。65歳で職を辞し、徳島に帰還。「うちのかみさん」と国府町で二人暮らし。阿波説の魅力に取りつかれて20年。徳島歴史研究会で年一回、自説の阿波古代史を発表。今年で16回。国府町の「一般社団法人・大御和神社・崇敬会」の事務局を夫婦で運営。

[問い合わせ先]090-1136-7625








ANYA氏の説/阿波海人族の足跡


出雲国風土記には、阿波から渡ってきたとされる「アワキヘワナサヒコノミコト」という神が登場します。この神は阿波から船で出雲へと渡り、主神であるオミヅヌによる「出雲の国造り」に深く関わっていたことが記されています。この神が、阿波のワナサオオソ神社に祀られている「ワナサヒコノミコト」と同一の存在であることは、神名の漢字を紐解けば一目瞭然です。「阿波」から「来た」、そして「わなさひこ」。つまり、彼の出自と名前がそのまま一つの神名として記録されているのです。

日本で唯一100%完全な形で現存する出雲国風土記に、この事実が記されている意味は極めて重く、これは後世の創作ではなく、当時のリアルな歴史認識だったと言えます。よく考えてみれば、縁もゆかりもない遠方の人間が、命がけで他国の国造りを手伝うはずがありません。そう考えると、オミヅヌ自身も実は阿波の出身だったのではないか、あるいは「ワナサヒコ」と「オミヅヌ」は同一人物だったのではないか、という大胆な仮説さえ浮かび上がります。

さらに、阿波の海から島根出雲へと渡ったワナサヒコの足跡は、日本海をさらに東へと進んだ京都の丹後地方にも遺されています。『丹後国風土記』の「真名井の天女伝説」には、なんと「和奈佐の老夫婦」が登場するのです。これは、高度な航海技術を持った阿波の海人族(ワナサ族)が出雲での国造りを経た後、さらに日本海沿岸を東へと版図を広げ、丹後の地一帯をも開拓・支配していた強力な証拠にほかなりません。

海を渡った阿波の海人族の男たちが出雲で農耕(粟の栽培)や玉の製作を広げたように、丹後の地でも最先端の農業や醸造技術をもたらし、現地の王として君臨していた、そんなリアルな歴史が、天女伝説という神話の形で今に語り継がれていると考えられるのです。

かつて籠神社が、その奥宮(真名井神社)に豊受大御神をお祀りしていた頃、この地は「匏(よさ)宮」と呼ばれていました。「匏」とは「ひょうたん」のことです。古代において、ひょうたんは海人族が広大な海を渡るために不可欠な浮き具であり、容器(飲料水)でした。「匏宮」という名が示す通り、天橋立がある丹後半島の一帯が、古代の阿波海人族によって切り開かれた土地であることは、この文字からもよく理解できるのです。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説


【執筆/ANYA(アンヤ)】
人気の大阪在住の古代史YouTuber。書籍「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 阿波(徳島)から日本が始まった。日本の起源も邪馬台国も四国にあった。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 歴史から消されてきた阿波の古代史が明らかになる。ヤマト政権から天皇家の起源などに関して独自の見解を述べる。 

[問い合わせ先]anyautb@gmail.com


ANYA氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
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中年タケシ氏の説/波濤を越えた「ワナサ」の足跡 — 阿波の波音から出雲・丹後の神話へ


こんにちは中年タケシです。
太平洋の荒波を穏やかな水面へと変える、徳島県海陽町の那佐湾。古代、この風光明媚なリアス式の港は、沿岸を航行する舟人の命を守る絶好の避難港でした。その波静かな浦を「波(ナ)が去(サ)らぬ場所」と呼んだ古代海人族「和奈佐(ワナサ)氏」。彼らの痕跡は、単なる地方の伝承にとどまらず、日本列島の広大な海路を通じて各地の神話を紡ぎ出しています。那佐湾を見下ろす尾根筋に立つ「多良古墳群」は、3世紀中ごろ〜4世紀の前方後円墳を含む首長墓群です。海を見下ろす立地は、まさに湾を統治し制海権を握っていた古代海人首長の権威を象徴しています。那佐湾北岸の愛宕山(旧名・八坂山)「大宮」周辺には、社殿以前の原始祭祀形態である磐境(石環)の痕跡が遺されていたとの伝承があり、かつてこの地には「和奈佐意富曽神社」が鎮座していたとも伝えられています。「意富曽(オホソ)」とは「偉大なる祖霊」の意。海人族ワナサの王は、荒波を鎮める「那佐彦・那佐姫」の神威とともにこの地に深く祀られていたのです。

驚くべきことに、この「ワナサ」の名は遠く離れた出雲や丹後の地にも響き渡っています。島根県松江市の宍道湖畔にほど近い「和奈佐神社」、そして雲南市の「船林神社」。船林神社の伝承では、御祭神・阿波枳閉委奈佐比古命(あわきへわなさひこのみこと)が「阿波から船を曳いてきて据え置いた」ことが山の由来と『出雲国風土記』に記されています。「阿波枳閉(アワキヘ)」とは文字通り「阿波から来た」ことを意味し、東祖谷や阿波の海から黒曜石や交易資源を求めて日本海側へと渡った海人族の移動の記憶を直接的に物語っています。さらに、「宍道(しんじ)」という地名も、海陽町「宍喰(ししくい)」と同じく「宍(シシ)」の名を刻み、両地域の深い文化的共通性を漂わせます。

また、京都府丹後地方に伝わる「天女の羽衣伝説」では、天女の衣を隠した老夫婦の名が「和奈佐」として登場します。波を鎮め、海の恵みをもたらす技術と天酒の酒造技術を持った海人族・和奈佐氏は、富と神聖さをもたらす存在として、異郷の伝承の中に刻まれたのでしょう。『古事記』の国譲り神話において、建御雷神が降臨した「伊那佐の小浜」。剣を波頭に逆さに立てたというその情景は、十拳剣のような鋭い岬が突き出し、双子島を抱く那佐湾の地形そのものを想起させます。阿波の小さな入り江から始まった波音の記憶は、黒潮と日本海の海路に乗り、古代日本の神話形成という巨大なうねりとなって今も静かに脈打っているのです。

https://youtu.be/Ai7A8MYJcb8?si=xht_ryNGlnD4n9Pe

【参照リンク】
①YouTube「
波が去らぬ、剣の入江のNASA」


邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲那佐湾。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説

▲阿波枳閉委奈佐比古命の伝承。

邪馬台国は阿波だった!?シーズン2【古代史を通して徳島の魅力を再発見】12話目/那佐と羽衣伝説


【執筆/中年タケシ】
「難しい歴史の話は抜き!」をモットーに、徳島の史跡をユルく楽しく巡るYouTuber。キャンプ好きが高じて阿波の歴史の奥深さに目覚め、現在は「歴AWA(レキアワ)」として活動中。中年タケシならではの等身大の目線で、地元の何気ない景色に隠された壮大なロマンを軽妙に綴る。

[問い合わせ先]なし


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【シーズン2】12話目【完】。

次回は・・・

那佐と羽衣伝説
記事公開日は2026年11月1日(木)。乞うご期待

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