歴史・文化
2025/07/01 02:34
あわわ編集部
邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?


小学生の社会の授業で習う、あの「邪馬台国」が阿波徳島にあったかもしれない説が盛り上がっている。魏志倭人伝など各歴史書からも符号する事象が多くあり、邪馬台国阿波説に関する書籍やWEB記事、YouTubeなどで各執筆者が自分の説を論じている。ただ、阿波説は完全一致していなくて(そこがまた歴史ロマンにあふれている!)、それぞれ積み上げてきた研究で自身の説を発信しているのが現状。1800年も前の出来事を完全一致させることはほぼ不可能ということで・・・。それならば!それぞれの論者の説を一同に掲載することで、各説の微妙な違いや逆に一致している点などを比較できるようにしようと、まとめ記事を企画しました。この無謀かつ挑戦的な企画にもかかわらず、快諾していただいた執筆者はなんと8名も!毎回のテーマごとにエントリーして執筆してもらうスタイルでまとめていきます(エントリーしないテーマのときもあります)。それぞれが論じる内容を読み比べ、納得する説をお好みでチョイスしていってください。なお、当企画は阿波の古代史を通して徳島の魅力を再発見するというのがミッションなので、邪馬台国以外のテーマも登場予定です。

※注※
この連載コーナーは、各執筆者の考え・主張をまとめたもので、あわわWEB編集部として特定の説を支持する立場でないことをご理解ください。内容に関する問い合わせなどにつきましては、各執筆者に直接連絡してください。
また、
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邪馬台国は阿波だった!? テーマ①/「邪馬台国は阿波にあったのか?」


通説
邪馬台国場所論争(通説)。 邪馬台国の場所は明確には判明していませんが、主に「畿内説」と「九州説」が有力な候補とされています。畿内説では、邪馬台国は大和地方にあったとされ、古墳や大規模集落の存在が根拠とされています。
九州説では、邪馬台国は福岡県の北部から中部に位置していたとされ、伊都国や奴国などの国々との関係が考慮されています。 邪馬台国の位置に関する記述は、中国の歴史書『魏志倭人伝』に基づいており、解釈が分かれるため、江戸時代から始まり300年もの長きにわたり論争が続いています。 このように、邪馬台国の正確な場所は未だに議論の余地があり、考古学的な発見や歴史的な文献に基づいて様々な解釈がなされています。あなたはどこだと思いますか。




三村隆範氏の説/「やまと」を探さなければ邪馬台国は見つからない」


 「あるでないで・・・」。阿波特有の言葉である。「ある」ものを見ながら話し合う事だ。「見えないから・・・」をいい事に、無いもの作り出して話し合っても一致するはずがない。面白ければよい方は、それでいいと思うが、それでは現実の社会は混乱が増すばかりだ。「真実は一つ」。「説」を論じ合うのではなく、真実の中で真実を追求することだ。①【 邪馬台国は無かった 】。まず、「邪馬台国は無かった。一般は邪馬台国を探しているが、そんな国は、日本に無かったし、「中国史書」に「邪馬台国(やまたいこく)」と書いたものは無い。「中国史書」に書かれる「邪馬壹国・邪馬臺国」等を「邪馬台国」に書き換え、「卑弥呼(ひみこ)」の後を継ぐ宗女の「台与(とよ)臺与(とよ)」を「台与(たいよ)」と読まずに「台(と)与」と読む。ならば「邪馬壹国(やまとくに)・邪馬臺国(やまとこく)」と読むはずだ。古代から日本の国名は「やまと国」で、「邪馬台国」と言い始めたのは、江戸時代以降である。「日本書紀」を見ても「日本此耶麻謄国(これやまとこく)」と日本国は「やまと」を示している。「やまと国」を基準に話し合えば自ずからわかる事である。②【 式内社が示す「やまと」】。平安時代から伝わる式内社は、阿波の美馬市に倭大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)が鎮座し、淡路島に大和大國魂神社、奈良に大和坐(います)大國魂神社が鎮座している。阿波に「倭(やまと)」があり、なぜ淡路島から「大和(やまと)」になり、奈良の大和に「坐(います)」つくのか?大阪梅田に「阿波座(あわざ)」がある。「座(ざ)」は移したという意味で、奈良の式内社の48社に「坐」が付いている。首都「大和」となり各地から神社を移してきた。つまり阿波の「やまと」が移って事を示してる。③【「やまと」を示す麁服調進(あらたえちょうしん)の儀式】。徳島県民の知る「麁服調進(あらたえちょうしん)の儀式」。新しく天皇に即位される天皇の元に、阿波から「麁服(あらたえ)」が届き天皇に即位される。「延喜式神名帳(えんぎしきしんみょうちょう)」にも記録されるが、伊勢神宮など他の地域から何も運ばれない。日本国の天皇陛下は「やまと」から続く「大和の天皇」である。その「やまと」を示すために、阿波の山間部[木屋平・美馬市]から「麁服(あらたえ)」が運ばれる。大和(日本国)の天皇が続くことを知らす儀式である。これは、阿波に邪馬壹国(やまとこく)があった証拠である。④【魏志倭人伝】。「三国志[魏志倭人伝]」に、「女王国[卑弥呼]は、帯方郡から一万二千里余りにある」と書いてある。測れば徳島県神山町になる。奈良も九州も距離が合わない。距離が測れないと思うかもしれないが。対馬~壱岐の間は「千里」。測ると「76.5km」であるから「一里は。76.5m」。76.5m×12000里=918kmであるから徳島県名西郡神山町に女王、卑弥呼は居た。

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【執筆/三村隆範(みむらたかのり)】
阿波古事記研究会副会長。1994年頃より青汁スタンド店内の展示イベントコーナーで「邪馬壹国は阿波だった」が開催されそれから阿波古代史に興味を持ち始め、調べれば調べる程、日本の文化は、阿波から広がって行った事に確信を持つようになった。平成13年(2001)「天照大御神生誕の地 阿波岐原をゆく」をビデオ製作 阿波古事記研究会を発足させ、今も活動を続けている。

[問い合わせ先]連絡先090-8282-0328(三村


三村隆範氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶東阿波ケーブルテレビ出演 ~阿波に広がる古事記の世界~ 阿波古代史プロジェクト6回シリーズ 第1回 高天原から伊耶那美眠る高越山(YouTube)
▶▶阿波古事記研究会(Instagram)
▶▶阿波古事記研究会 グループ(Facebook






島勝伸一氏の説/邪馬台国は阿波にあったのか?場所の特定


歴史の研究とは、文献、遺跡遺物、伝承、考古学、分子生物学など、多岐にわたる資料の中から①いつ(年代)②誰が③どこで④何を⑤どうした、を特定することですが、日本の歴史資料にはなぜか③の資料が抜けています。その原因についても言及しようと思います。 今回1000文字という制約の中で連載物として執筆を行うのですが、その前に、日本人がいつ日本列島に定住したのか?をY.N.ハラリ著サピエンス全史等から読み解きます。20万年前、アフリカ東海岸で発生した新人類(ホモサピエンス:現在地球上の人類は一種類。20万年という長期間に地球上各地の異なる環境下で、黒人、黄色人、白人、大きい人、小さい人、言語の違いなどで変化した)は10万年前、アフリカから全世界へ拡散した。新人類は他の人類や動物と違い、群れとして共同作業ができる意思疎通ができる特徴があり、群れは発展・膨張し、その行動範囲で食料が不足すると、新しい群れは食を求め北へ西へ、草木に覆われた大地を移動していった。北へ進んだ群れは約7万年前、西アジアで、西、北、東方へ別れて進み、東進したものは、海を渡る舟を発明し、北への群れは草木から衣服を発明したことでしょう。海を進んだ群れは、約4.5万年前には日本列島に着き、海山川で区切られた列島各地定住し、一部はまた北上し、アメリカ大陸に渡り、今度は南下し大陸の最南端迄1~2万年かけて広がっていきました。 初めて日本列島と日本人を世界史の中へ紹介したのが、中国の史書三国志(魏・呉・蜀)のうちの魏書第30巻烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)東夷伝(とういでん)倭人(わじん)条(魏志倭人伝)です。漢字で約2000字という膨大な量で驚きと称賛の念をもって書かれており、表記の距離(直線距離・短里)、方角を曲解せず解読します。(拙書:魏志倭人伝を最新科学で読み解いた「女王卑弥呼は阿波女」参照) ①邪馬台(壹)国は阿波にあったのか? 今迄の歴史家は魏志倭人伝の会稽東治を、呉の国の「会稽」とし、邪馬壹国が太平洋上なるので、この書は信用できない、と言われた。しかし魏の史書に記された魏国が朝鮮半島等東方を治める役所である「会稽東治」(BC223年秦の始皇帝が楚国を滅ぼし下相県現在の宿遷市宿城区古城街道一帯。旧黄河河道に置いた下相城跡(北緯33.9度)が2006年発掘された。そこに邪馬壹国は会稽東治(北緯33.9度)の真東にあると書いてある。なおその少し前BC232年、のち西楚の覇王となる英雄項羽の生誕地です(項羽故里と呼ばれています)。また次号でお会いしましょう。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?


【執筆/島勝伸一(しまかつしんいち)】
NPO法人吉野川に生きる会代表理事。阿波ヤマト財団評議員。NPO法人吉野川に生きる会 その事業の一つに、歴史を通じた街おこしに取り組むNPO法人「吉野川に生きる会」として卑弥呼サミット等を開催。郷土史家として島勝理事長や愛媛大学の越智正昭・客員教授らが、出土品や地質学、気候などの観点から阿波説について解説し阿波古代史を広くPRしている。

[問い合わせ先080-3533-5146(島勝)


島勝伸一氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・

▶▶島勝伸一解説 岡元雄作監督作品 ドキュメント映画『ルーツ オブ ザ エンペラー』令和6年6月27日 四国古代史サミット東京(YouTube)






藤井榮氏の説/「邪馬台国(やまたいこく)」は「邪馬臺国(やまとこく)」で「倭(やまと)」の国


◆皆さんがよく見聞きされる「邪馬台国(やまたいこく)」という文字は、本来中国の魏志倭人伝(ぎしわじんでん)では「邪馬臺国」と書き、その読みは3世紀卑弥呼の時代から「ヤマトコク」と呼ばれており、一方我が国ヤマトでは「倭(やまと)」と呼ばれていたことが分かっています。◆日本最古の国家正史「日本書紀(にほんしょき)」第10代崇神(すじん)天皇6年のくだりには次のような趣旨の記述があります。「‥天照大神と倭大国魂(やまとおおくにたま)の二神を同じように天皇の御殿の内にお祭りしていたが、二神の神威(しんい)を恐れて二神と共に住まわれることに不安があった。そこで天照大神を豊鍬入姫命(とよすきいりひめみこと)に託して倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祭り堅固な神域(しんいき)を立てた。また日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を淳名城入姫命(ぬなきいりひめのみこと)に託して祭らせた‥」。◆この記述の日本大国魂神(やまとのおおくにたまのかみ)を祀るのが徳島県美馬市美馬町字東宮上に鎮座する「倭大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)」です。全国で唯一阿波で祀られているこの神社の存在は阿波が「倭」であったことを示す何よりの証拠ではないかと思います。 これを裏付けるように「倭大國魂神社(やまとおおくにたまじんじゃ)」鎮座地南、吉野川南岸つるぎ町半田の河岸段丘には崇神天皇の宮“師木(しき)の水垣宮(みづがきのみや)”跡が「天皇」という地名でその痕跡を留めています。◆「邪馬臺国」は、魏志倭人伝の次の記述からも阿波ではないかと考えられます。◆①「7万余戸ばかりあり」。◆3世紀卑弥呼の時代、日本列島の総人口は約60万人といわれ、この「7万余戸」という数字は4、5倍に誇張されていると考えられるので、これを4、5分の1の7万人と考えれば、「矢野遺跡」を中心とする蔵本庄遺跡から石井城ノ内遺跡までの東西8km、南北4km (約3,200ha、約64,000人居住可能)以外に全国どこを探しても他に候補地を見つけることは困難ではないかと思います。◆②「其の山に丹あり」。◆3世紀弥生終末期の卑弥呼の時代、「丹(たん)」(辰砂(しんしや)・水銀朱・硫化水銀HgS)採掘遺跡は、昭和40年代の早稲田大学考古学教室による全国360数カ所の調査結果から全国でただ1カ所、徳島県阿南市水井(すいい)町の「若杉山(わかすぎやま)遺跡」だけなのです。◆③「その死には棺(かん)あれど槨(かく)なし」。◆これは、邪馬臺国の葬法が「棺(ひつぎ)」に土を被せただけの“盛土墳”であり、棺を保護する石囲いなどの「槨」がないことを示していますが、これに当てはまるのは阿波のいわゆる“阿波式石棺”(青石を組み合わせた箱式石棺)だけではないでしょうか。◆以上をお読みいただいて皆さんも邪馬臺国の所在地についてお考えいただければと思います。

*YouTubeチャンネル「古代史塾」(「阿波古代史講座 第6回」 ・ 「倭大國魂神社」) を参照。
*小著『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』テーマ8(34~38頁) ・ テーマ29(123~129頁)、 『古代史入門』3~34頁 ・ 108~112頁(Amazon電子書籍・印刷本)を参照。

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【執筆/藤井榮(ふじいさかえ)】
昭和24年美波町(旧日和佐町)生。平成22年徳島県庁退職。平成26年本格的に阿波古代史の勉強を開始、平成27年「邪馬台国阿波説入門講座」(現「阿波古代史講座」)を開講、令和4年2月古代史塾を起こしHPを開設してYouTube動画配信を開始、同年4月『古代史入門』、同6年2月『甦る皇都阿波(ヤマト)への旅』をそれぞれAmazon電子書籍・印刷本出版、現在に至る。

[問い合わせ先]sakae-f-1949@ma.pikara.ne.jp


藤井榮氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶古代史塾(公式HP)
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オキタリュウイチ氏の説/【最終結論】邪馬台国は、阿波にあった ― 日本のはじまりを、もう一度たどる ―


淡路島が「オノコロ島」と呼ばれていたことはみんな知ってるよね?日本神話において、最初に生まれたこの島。いまは兵庫県だけど、江戸時代まで、徳島の領地だったの知ってる? 「淡路」の名は「阿波への路」に由来するので、阿波に行く道、という意味からして、阿波の重要度がわかると思う。【神話の神々との関係】/ 日本神話で最も有名な神の、イザナギ(夫)とイザナミ(妻)。この神さまは知ってるよね? 千年前に朝廷が記した『延喜式神名帳』は、夫のイザナギを祀る神社は淡路島に7社ある。一方で、イザナミの名を冠した延喜式内社は、全国でただ1つなんだ。徳島県美馬市の「伊射奈美神社」だけ!こう考えると、当然でしょ? 国産み神話は、阿波で起こった出来事だって。シンプルだよね。【なぜ、九州が神話の地になったのか?】/「神話の舞台=高千穂(宮崎)」というイメージが根付いてると思うけど、実は、あれ明治政府が仕掛けたプロパガンダなんだ。そもそも当時、「明治政府」なんて誰も呼んでなかった。三菱の創業者、岩崎弥太郎の日記を読んでも、「薩長政府が〜」と書いてる。歴代首相を含め政府関係者も全て、薩摩と長州出身者で固めた。そこで、九州が「神話のスポット」「神聖な地」である必要があった。じゃないと、「なんであいつらだけ権力握っとんねん!」となるから。『延喜式神名帳(972年)』によれば、日向(宮崎県)の式内社は4社。対して、阿波(徳島県)には50社が記載されている。 という事は、宮崎は千年前は、神話上、何も無かった土地だという事になる。では、畿内説はどうか?例えば奈良県の橿原(かしはら)神宮。神武天皇を祀る重要な神社なんだけど。 ホームページを見ると、「ようこそ、日本のはじまりへ。」と書かれている。ここがヤマトです!ジャーン!みたいな。で、創建年代を調べると、明治23年に創建されている!その前は、その土地は、オオカミが住む単なる原っぱだった。そこに、政府が「橿原神宮」をゼロから作って、「橿原市」を作って、駅まで作った。じゃあ、その前は、神武天皇はいったい何処で祀られてたの?それは、徳島県土成町にある「樫原(かしはら)神社」。神武天皇を祀る古社としての記録が残っており、奈良に橿原神宮が出来た直後、何者かに爆破されてる。誰かがここに神武天皇が祀られていたのを隠そうとしたことは間違いない。【元社と古墳】/ 徳島の神社は、古墳と神社がワンセットになっている。これは、ピラミッド研究で名高い考古学者の吉村作治教授も「ピラミッドと神社の構造は酷似している」と指摘している。 古墳と神社がワンセットになっているのは、阿波特有の構造だ。加えて、徳島では昭和54年に「日本最古の前方後円墳」も発見されている。阿波で大量の小振りの前方後円墳が造られていった後に、ある時代にピタッと造られなくなる。その後、奈良に大振りの前方後円墳が出来始めるのだ。【おわりに】/阿波に邪馬台国があったのか。阿波に「日本のはじまり」を思わせる痕跡が数多く眠っている。教科書には載らないもうひとつの歴史が、確実に存在するのだ。真実の歴史の世界へ、ようこそ。これから、一緒に紐解いていこう。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?


【執筆/オキタリュウイチ】
オキタリュウイチ ディープ・ブランディング株式会社代表  元真言宗・僧侶 徳島県生まれ。早稲田大学中退。行動経済学に基づく経済心理学を独自の手法でマーケティングに応用し、数々の老舗企業再生等を行う。京都の老舗米屋を2400万円から20億円の売上にするなど、驚異的な成果を生み出す傍ら、同時に社会活動家として、自殺者撲滅や日本財団と共催し障害者の起業支援を行うなど、社会的課題の解決に取り組む。近年は、社団法人「日本神社再生機構」を立ち上げ、滅びゆく日本の神社の再生に従事する。 

[問い合わせ先]office@deepbranding.jp


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恋塚健生氏の説/邪馬壹(台)国は100%まちがいなく、阿波・徳島にあった


私が所属する歴史でまちづくり推進協議会では「魏志倭人伝」に書かれている内容を、新技術である“グーグルアース”を用い、原文のままに正確に読み解くと、記載されている「邪馬壹国」の中心の位置が「徳島県名西郡神山町神領(かみやまちょうじんりょう)」となる事を、10年前に証明しました。 「書かれている距離は全て正確な直線距離」、「単位は魏の時代の短里(1里=76~77m)」(注1)であると仮定し、2006年に特定された項羽の生まれた下相城が「会稽東治の真東」(注2)と言う情報を組み合わせると、その交点は「神山町神領」となります。また、後漢書の記述「去其西北界拘邪韓國七千餘里」をたして参考にすると、三線の交点となり、それらの証明を決定づけるものとなっています。(注3)簡単に言うと、B4用紙に書いた極東地図において、マジックペンの先の点(神山町神領)が三線の交点となるということで、「たまたまそうなった」などという言葉(確率)では、絶対片付けられないものとなっています。 他の「魏志倭人伝」に書かれている距離や方角、地名も全て矛盾無く説明できており、その内容については、8年前に東阿波ケーブルTVによって映像化された、「新春特番魏志倭人伝を最新技術で読み解いた」(注4)でも詳しく説明されています。 また当時の徳島県で「辰砂が採掘されていた事実」や、「記載されている地名と現存する地名の一致」など、全ての情報に関して整合が取れています。 魏志倭人伝の内容は極めて正確であり、古代の人々がこれだけの科学的な知識や技術を使いこなし、日本と大陸間を行き来していた事実に接し、純粋に尊敬の念を抱かされます。 インターネットと言う技術を、歴史研究にも応用し、歴史地理学的アプローチなどが従来の文献・考古学的な研究と組み合わす事で、今まで謎であった、日本の古代史を解明していきたいと、考えています。

(注1)数学者の半沢英一氏、自然科学者の谷本茂氏が古代中国の1里は(76m~77m)であることを発見しています。
(注2)下相城と、会稽東治の真東の関係については、春秋戦国時代からの説明になり情報量が膨大になるため、わかりやすく項羽の里(項王故里)として単純に説明しています。
(注3)三線の交点図。
(注4)作成・東阿波ケーブルテレビ 樫原氏、原本編集・恋塚建夫(梨目正)他。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか? 邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?


【執筆/恋塚健生(こいづかたけう)】
阿波の古代史、ひいては日本の古代史は、神社や考古学だけでは説明が付きません。私達は数年前に「邪馬壹国」は数学とITで、「古事記」は漢字の読み解きとITを使って、阿波・徳島が「邪馬壹国」であり「古事記の舞台」であることを説明できるようになりました。理系の考え方は全てエビデンスに基づくロジカルシンキングであり、場当たり的な我田引水の説明とは全く異なります。小学生にも分かる丁寧な説明を心掛けています。

[問い合わせ先]ogenkisama0@gmail.com


恋塚健生氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶魏志倭人伝を最新技術で読み解いた!(YouTube)






ANYA氏の説/ベールを脱いだ邪馬台国阿波説に、九州説、畿内説は沈黙必至・・・


中国の歴史書、俗に言う「魏志倭人伝」に、邪馬台国と女王卑弥呼が登場します。「魏志倭人伝」とは、時の中国周辺の有様を後世に残す為に編纂された中国の歴史正史で有る事から邪馬台国という国が我が国に存在したことは間違いないでしょう。その場所を特定する為に300年あまりの昔から、時の学者がそれぞれの解釈で紐解こうとしています。現在、邪馬台国論争は、奈良説派と北部九州説派に、ほぼ二分されています。奈良説派の学者は奈良に在った根拠を、北部九州説派の学者は北部九州に在った根拠をひたすら探していますが、 江戸時代ならいざ知らず、考古学や文献史学が発達した現在でも邪馬台国の答えが見いだせないという事が、なにを意味しているのか皆様よく考えてみてください。例えば、東京や大阪で平安京(京都)の跡地を300年間探したとしても、平安京の跡地は東京や大阪からは絶対に見つかりません。当たり前です、平安京は京都であって東京や大阪には、歴史事実として存在しないからです。つまり、膨大な研究や発掘を重ね、300年間何一つ確証が取れないという事は、奈良や北部九州は邪馬台国ではないという事が答えではないでしょうか?では、邪馬台国はどこに存在していたのでしょうか?「魏志倭人伝」には、邪馬台国までの行程(道順)と、その風俗や特産物などが書かれています。邪馬台国までの行程(道順)は、それぞれの方が色々な解釈をされてていますが、私の解釈では間違いなく阿波に行きつきます(YouTube「ANYAチャンネル」もしくは、ANYA著「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」をご覧ください)。風俗や特産物では「朱・丹(赤い顔料)を体に塗る。」「倭の地は、真珠・青玉を産する。山には丹が出る」と有りますが、この時代、丹(水銀朱)の人工的な採掘跡は阿波にしか存在せず、阿波若杉山水銀朱採掘遺跡は、水銀朱採掘遺跡として唯一の国史跡にも指定されています。また、「女王国の東、海を渡ること千余里で、国々があり、すべて倭種の国である。」と記されています。この一文からは、邪馬台国の東に海が有り、その数十キロ先には倭人が住んでいる陸地が有ると書かれていますが、 阿波の東には紀伊水道が有り、その東数十キロ先には紀伊半島も存在しています。阿波はこの条件にも当てはまる、数少ない場所なのです。

*公式YouTubeチャンネルの㉕『阿波から日本が始まった、拡散用』を参照。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?


【執筆/ANYA(アンヤ)】
人気の大阪在住の古代史YouTuber。書籍「決定版 阿波の古代史 邪馬台国は阿波だった」。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 阿波(徳島)から日本が始まった。日本の起源も邪馬台国も四国にあった。邪馬台国・阿波説ブームのきっかけを作った「ANYAチャンネル」の動画が一冊に! 歴史から消されてきた阿波の古代史が明らかになる。ヤマト政権から天皇家の起源などに関して独自の見解を述べる。 

[問い合わせ先]anyautb@gmail.com


ANYA氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶ANYAチャンネル(YouTube)






コラク氏の説/魏志倭人伝は邪馬台国の場所を伝えようとしている


3世紀末に陳寿によって書かれた中国の歴史書「魏志倭人伝」に登場する邪馬台国。これまでの研究によれば、その比定地は北部九州説や畿内説を推す声が大半だ。ただし双方ともその所在を特定する決定打には至らず未だに決着はついていない。理由はそれぞれが魏志倭人伝に記録されてある文章を都合よく抜粋し、恣意的に解釈されているが故に互いに矛盾する点を無視しているのが原因であるといわれている。これがいわゆる邪馬台国論争である。そんな中、近年一石を投じ俄かに注目されつつあるのが九州と畿内との中間点に位置する四国。取り分け最も有力視されているのが阿波説である。では本題の邪馬台国は阿波にあったのか?についてだが、“普遍”(どこにでも当てはまる)のものではなく“不変”(変化しない)のものを頼りに所在したであろう場所を限定的に絞ることが可能だ。これまでに記録された中国の記録書の中から日本のどこにでもあるようなものを淘汰し、不変不動な地理や特筆すべき産物、女王が居する都とある邪馬台国までに至った道程や距離・方角等から絞り込みをする。以下に魏志倭人伝を代表とする中国の歴史書から抜粋し概括する。●「魏志倭人伝」には「出真珠青玉 其山有丹」「真珠や青玉を産する 山には丹がある」や「女王國東渡海千餘里 復有國 皆倭種」「女王国の東、海を渡ること千余里 また国有り みな倭種なり」とある。つまり女王国の東側は海と面しており、渡海先には同種の人が住む地理であること。また真珠や青玉石、山から辰砂を産出する特長を記す。*里数は短里を採用する。●「隋書倭国伝」には「樂浪郡境及帶方郡並一萬二千里」「楽浪郡境および帯方郡を去ること並びに一万二千里」の距離にあり、「都於邪靡堆 則魏志所謂邪馬臺者也」「邪靡堆に都する 則ち魏志いうところの邪馬台なり」とある。楽浪郡(現在の平壌周辺)から12000里の距離に存在し、また隋(581年-618年)の時代においても都とする邪馬台国の所在場所の地理的位置に変わりがなかったことが確認できる。●「後漢書倭伝」には、「去其西北界狗邪韓國七千餘里」「その西北界、狗邪韓国を去ること七千余里なり」とあり、言い換えれば狗邪韓国(旧の伽耶)から東南の方角7000里余りの場所に邪馬台国が存在していることもわかる。これら記されるすべての情報が一致する場所。何の先入観も無い現代人に上記の条件で答えを求めたとすれば、大半が四国徳島県というはずである。

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?


【執筆/コラク】
日本の特に徳島県(阿波)の古代史を中心に研究をしております。古代の阿波の人たちが日本の国家形成にあたりどのような形で関わって来たのか。また、魏志倭人伝や古事記等の歴史書や古墳・遺構遺物、寺社のご由緒に地域の昔話等々...様々な角度観点から独自の解釈をもって古代を考察しております。

[問い合わせ先]なし


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ヤマモトタケルノミコト氏の説/邪馬台国の中心は阿波以外には考えられません


魏志倭人伝から素直に読み解くと里行程・方向・風俗の紹介文面で、阿波を中心とした讃岐と愛媛を含んだ場所と考えており、岡山吉備とも深い関係があったと推測しています。①帯方郡治(沙里院市)から一万二千里にある。【神山町神領】②其山丹有:水銀丹(朱)が出る【若杉山辰砂採掘遺跡】③東の極南海:海を挟んで100里東にも倭人の国がある【徳島から紀伊水道を挟んで和歌山がある】④倭の地を周遊すると五千里余り【宗像市(末盧国)から四国の東果てまでの距離】⑤徳島の宅宮神社には千年以上続く神踊りがあり、その中の「いずも踊り」には【伯母御の宋女、御年十三、名前は臺與(とよ)とおたしなむ】と卑弥呼の後を継いだ臺與を歌ったものが伝えられています。⑥天石門別八倉比売神社:『八倉比売御本記』に「東の峰」にあった墳墓について「神陵の径108歩」【卑弥呼の墓・直径百余歩】とまた(赭土印璽)【金印・中国からもらったとされる】が埋められているとも記されています。⑦『余談』徳島新聞1952年(昭和27年)8月26日に剣山発掘調査時にミイラ土100体を 山本英輔という元海軍大将が発見したと?【卑弥呼殉葬100人】。また、邪馬台国(やまとこく)と読めば、古事記・日本書紀に(やまと)との記載があり、日本の国が、倭(やまと)→大倭(おおやまと)→大和朝廷(奈良)と阿波から始まり、奈良、京都へ移っていったことが分かります。『延喜式神名帳(927年)に朝廷が大事な全国の神社一覧を作成』そして本当に大事な神社が阿波にたくさんあります。①倭大国魂神社―倭の国の魂を祀る神社 ②豊玉比売神社―初代神武天皇のおばあさんの神社③伊射奈美神社―神代七代の国生みの伊邪那美の神社。①の倭(やまと)の国の魂を祀る神社が阿波にしかない。もともと邪馬台国(やまたいこく)と現在は読んでいるが、数十年前まで邪馬壹国(やまと)と呼ばれていた。・江戸時代の政治家・朱子学者、新井白石が日本で初めて本格的に邪馬壹国の位置を論じたとされ、当初は畿内と主張し晩年に九州説に転じた。一説には天皇家の先祖卑弥呼(天照大神)が中国に朝貢していたことを老中に責められて九州に別の国を造って転じたとも?言われています。ここから300年以上も畿内(京都大学)と九州(東京大学)で論争が続いている。この生真面目な日本人が研究を続けて結論が出ないのは両方違うのではとついつい私は思ってしまいます。皆さんはどこだと思いますか?

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか? 邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?


【執筆/ヤマモトタケルノミコト】
阿波古代の素晴らしさを広く伝えるために日々走り回っている阿波古代伝道師。とくしまクチコミ大使!(徳島商工会議所)。邪馬台国は阿波だった!ラジオMC(エフエムびざん)。アワテラスラボ 理事長。阿波ヤマト財団事務局長。徳島県 観光審議員。徳島YEG:卑弥呼フェス開催。映画「少女H」撮影上映。徳島JC:映画「佳歩」撮影上映。口ずさめとくしまの歌!開催。

[問い合わせ先]heartfull80@gmail.com


ヤマモトタケルノミコト氏の説をもっと詳しく知りたい方は・・・
▶▶邪馬台国は阿波だった!(YouTube)
▶▶アワテラス歴史研究所アワラボ(Facebook)
▶▶一般財団法人阿波ヤマト財団(公式HP)





テーマ①【完】。

次回のテーマは・・・

【卑弥呼は天照大御神だったのか?】
掲載日は2025年7月15日(水)。乞うご期待

邪馬台国は阿波だった!?【古代史を通して徳島の魅力を再発見】テーマ①邪馬台国は阿波にあったのか?



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